玩ばるトマトばぁちゃんの日常

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新撰組

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しばらく新撰組に関する記事をアップしていなかったが、2年ほど前、日野の「新撰組資料館」へ行った

とき、もう一つの浪士組である「新徴組」についての展示があり、その時貰ってきた資料が手元にあった

ので、それを読み返しているうちに、ふと記事にしておこうと思った。



★ 清河八郎が暗殺される


芹沢鴨・近藤勇ら17名を残して、文久3年(1863)3月28日、清河八郎が率いる浪士組221名

は、攘夷実行のために江戸へ帰ってきた。

因みに、この浪士組は、この年の2月8日に江戸を発ち、2月23日に京都の壬生に到着。しかし、彼ら

は壬生には20日間止まっただけで、3月13日には江戸に向かって発つという、誠に慌しい行動をとら

されている。


江戸にに帰った浪士組は、攘夷実行のために準備を整えていたが、京都にいる将軍からはなかなか攘夷実

行の命令が届かず、浪士組は動こうにも動くことが出来なかった。


そうした中で、清河八郎は自らの死を覚悟する。故郷の両親に遺言めいた手紙を送っていた。

その翌日だった。清河は佐々木只三郎、速見又四郎、等に暗殺される。江戸に帰って丁度18日目、

攘夷決行と決めた15日の2日前であった。清河・享年34才、まだ若かった。


清河の暗殺を命じたのは幕府であった。

幕府は、浪士組が幕府の統制下にないことに危機感を感じていたのであろうと言われる。

清河の暗殺2日後、清河の同志である浪士組の幹部は幕府によって捕らえられ、残された隊士達は庄内藩

へ御預けの身となった。

この際、浪士組は新たな名前を授かる。

それが「新徴組」であった。


隊士の中には、清河が暗殺され、幹部が捕縛されたとあって、身の危険を感じて脱走する者が相次ぎ、隊

士の数が半分に減ってしまった、ということだ。



★ 江戸の新徴組


文久3年(1863)の10月、幕府は庄内藩他13藩に江戸市中見回りを命じた。

(後には庄内藩が一手に見回りを命じられることになる)

庄内藩は、藩士の次男、三男も、新徴組と同じく市中見回りに動員している。

江戸市中見回りは、不審者、狼藉者の捕縛が主なる仕事だった。

が、手に余るものあれば、その場での殺傷も許されていた。

新撰組と同様、武術に優れる新徴組隊士には、この任務は適任であった、とみなされる。

隊士の士気も高く、新徴組は江戸の治安維持に大いなる貢献をしたといえる。


その一方で、江戸の人々からは恐れられ、時には、謂れのない悪評も流布したという。


★ 新撰組と新徴組の違い


新徴組は設立当時から、隊士は庄内藩の下級藩士に取り立てられ、家禄を支給された。

新撰組が会津藩預かりから幕臣に取り立てられて家禄を支給されるようになるのには、新撰組が誕生して

から4年後の慶応3年(1867)になってからである。

しかし、新徴組には、会津藩預かりだった新撰組と違って、自主的な活動は見られなかった。

そのため、お互いの思想の違いなどで、粛清にまで発展するというようなことはなかった。

また、新徴組は家族と一緒に住むことを許された。隊士の死亡後は、息子や弟が跡を継ぐことが出来た。

その点で言えば、新撰組よりも、その生活は安定していたといえる。


★ その後の新徴組


慶応3年(1867)12月、薩摩藩の西郷隆盛は、幕府と戦端を開くため、江戸市中で、幕府への挑発

活動を行わせた。

これに耐えかねた幕府は庄内藩に薩摩藩邸の襲撃を命じることになる。

12月26日、新徴組は庄内藩勢の一員として、薩摩藩邸を焼き討ちする。


果たして、この7日後、京都では鳥羽、伏見の戦いが勃発。戊辰戦争が始まる。


新徴組は庄内藩士と共に、江戸を引き上げ、庄内で新政府軍相手に奮戦することとなったのである。

新徴組の面々は、山形の藩士として庄内藩に戻って、そこで新政府軍と戦った。戦い自体は負けていなか

たが、周りの藩が次々と新政府軍に破れていき、庄内藩も結局最後は降伏という形を取らざるを得なかっ

たのだった。

その後、庄内の松ヶ丘というところへ、開拓団として送り込まれる。

そこで開拓に従事して生活した者もあれば、過酷な労働に耐え切れずに逃亡したり、生国へ帰ったりした

者もあるという。

但し「新徴組」という名前の組織は、明治に入ってからも使われていたということだ。

無論、仕事の内容は江戸時代のものとは同じではなかったと思うけれど。



○ 写真は伝通院にある清川八郎とその妻の墓

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1昨日、13日のNHK放送・歴史秘話ヒストリア「新撰組 京都青春録〜素顔の沖田・土方・近藤〜」

をご覧になった方はおられますか。

上記のタイトルで「新撰組のヒーロー、近藤勇、土方歳三、沖田総司の秘められた素顔を描く」というこ

とだった。

久しぶりに新撰組を取り扱った番組が見られるというので、私は楽しみにしていた。


が、夜10時から45分間にわたって紹介された、上記の3人の京都での青春エピソードは、ことのほか

平凡で、どれもどこかで読んだり、聞いたりしたようなお話に終始していた。


【都で名を上げ、故郷の人々に認められようともがく土方】と称して彼が戦いの時に用いていた刀傷のつ

いた「はちがね」をふるさとの実家に送ったとか、京都の花魁たちにいかにもてたかという手紙を書き送

ったとか、土方に付いてはそんなエピソードが紹介されていた。

私はこのはちがねを「土方歳三資料館」で見たことがある。

そのとき、大事なはちがねをこちらに送ってしまって、代わりのがあったのかなぁ、などと、余計な詮索

をしてしまった。


また、近藤勇に付いては【池田屋事件で手柄をあげるも境遇の変化に悩む近藤】といういくつかのエピソ

ードが語られた。

近藤勇は本来は国防の戦士となりたかったはずだが、現実は京都の町で市中取締り役を任ぜられて、過激

浪士相手のもぐらたたきの役目をやらされていた。そんな自分に疑問を感じていた近藤だった。

そのため、いろいろあったが、最後には、新撰組解散を決意して上申したりしている。

が、この上申書は、結局受理されなかった。情勢は刻々と変わっていたからだ。


沖田総司に付いてはどうか。

稽古場では、近藤勇より強いのではないかと、周りから恐れられていた沖田だったが、暇な時は近所の子

供たちを集めてよく一緒に遊んでいた、という。

また、沖田には恋人がいた、という説。

それは、山南敬助等、多くの新撰組の隊士たちが眠る壬生屯所近くにある光縁寺の中に、「沖田氏縁者の

墓」と刻まれた女性の墓があるからだ、という。解説によると、彼はある医者の娘に恋をしたのだが、こ

れを近藤に反対されたということだった。

その恋を諦めねばならないことを心に決めた時、沖田総司は涙をぽろぽろこぼして泣いたという。


そんないくつかのエピソードが、時には新撰組に詳しい人たちの解釈を交えながら語られたのだった。


しかし、上記の事々は、新撰組に付いて少し本を読んだり、一度でも映画やドラマを見ているいる人たち

から見たら、みんな分かりきっているお話ばかりではないのか。「秘話」などではない。

私とても、いくら危険分子が横行していた当時とは言え、新撰組の志士たちが、毎日彼らと切り合いばか

りしていたとは思わない。


彼ら以外の新撰組の面々にもにもそれぞれの青春はあったはずだ。

が、今回のNHKの「沖田、土方、近藤の京都青春録の歴史秘話」の数々は、少なくとも私には「秘話」

だとは思えなかった、ということだ。


少し言い過ぎかな・・・?


「新撰組のことなど知らない人にとっては、全部が秘話ですよ!」

と、言われたら「は、はい、そうですね」と応えることにしよう。

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新撰組の基盤となった同志達の天然理心流剣術道場「試衛館」は、江戸の市谷甲良屋敷にあった。

現在の新宿区市谷甲良町である。


それは、地下鉄・都営大江戸線、牛込柳町で降りて、徒歩5,6分の所にある。

地下鉄の駅を出ると、目の前が大久保通りだ。

そこを100メートルくらい飯田橋方向に向かって歩くと、外苑東通りにぶつかるから、これを渡って、

右側に曲がる細い坂道を登っていくと、そこが試衛館の跡地である。


大久保通りや外苑東通りは交通が激しく、とても江戸時代の面影など感じられない。

ここ、試衛館の跡地も、周りは新しい住宅や、高層のマンションが建てられたりして、簡単に「江戸の情

緒を偲ぶ」ことの出来る場所ではない。

試衛館の跡地は、今、自動車の駐車場になっていて、私が行った時は3台ほど停まっていて満杯だった。

その駐車場の脇に、NHKの大河ドラマ「新撰組」が放映されたのを機に、多分、区が建てたのだろう。

「試衛館跡」の碑が一本建てられていた。

何冊かの新撰組の資料の中で、この「試衛館」の碑の写真を見たが、碑を見ただけでは、周りがどうなっ

ているのかよく分からなかった。

そこで、レンズを広角にして「試衛館」の碑のある場所も含めて、周りがどうなっているのか、なるべく

広範囲に写るようにフレーミングしてみた。

すると「試衛館」の左手が狭い、ゆるい坂道になっていて、その先に、古い神社らしきものが建っている

のが見えた。


坂を降りていってみると、そこにはまさしく小さな祠のような神社があった。

しかし、その神社は、門も閉まっており、中は草茫々で、誰かがお参りしたり、中の手入れをしたりして

いる様子はなかった。

ここは「正一位稲荷神社」であった。

嘗ては「試衛館」に深い関係のある稲荷神社で、道場主の近藤勇や土方歳三なども、折に触れて参拝した

ということである。

また、浪士組に入って、上洛する折も「試衛館」一同、参拝に上がったといわれる。



ところで、話は少しずれるが、幕末の志士達の生まれた年について、私はなるべく西暦に直して頭に入れ

ることにしている。

天保だの嘉永だのといわれても、その順番がきちんと頭に入っていない限り、ぴんとこないのだ。

例えば、新撰組局長近藤勇は1834年生まれである。

そこで、私は考える。

この人は、私より何年前に生まれた人なんだろう、と。

1939年生まれの私は、近藤勇より105才年下ということになる。

同じく、土方歳三の生まれ年は近藤勇より1年後の1835年、従って私は、土方より104才年下であ

る、というわけだ。


こうやって、その時代との年代の差を見ていくと、彼等、新撰組が台頭し、やがて落日の日を迎えたの

は、そんなに大昔のことではないことに気付くのだ。



話は元に戻るが、近藤勇は嘉永2年(1849)に、ああ、因みに私が生まれる100年前の10月19

日、三代目近藤周助の養子となり「試衛館」に入ったのだった。

この頃に、土方歳三とも知り合いになったということだ。

また、「試衛館」には、10才のとき内弟子として入った天才剣士、沖田総司がいた。

その他には、

近藤と他流試合をして破れて門下生になったという、仙台脱藩の山南敬介、

神道無念流の達人、松前脱藩の永倉新八、

伊予松山脱藩の原田左之助、

北辰一刀流の藤堂平助、

などなど、後の新撰組の主力メンバー達が集まっていた。


その、「新撰組」のドラマなどでは華々しく活躍する、若い剣士たちの屯していた道場が、どんな形で

ここに建てられていたのか想像もつかないが、しばし、そこに立ち尽くして目を瞑ると、当時の有様が

そこはかとなく、眼の中に浮かんでくるのだ。


そういう意味では、そこがどんなに変わろうと、その「場」に立つということは重要なことだと思った。


帰りがけに、ふと、駐車場になった「試衛館」跡地の道沿いの鉄柱を見上げると、髑髏のマークのついた

「新撰組の青春の地」と書かれた旗がくくりつけられてあった。

これは「区」がやったのではなく、多分、町内の新撰組のファンクラブみたいな人たちが、面白半分にく

くりつけたのではないのかな。

そんな感じのする旗だった。



写真について

☆(1)「試衛館」跡地の碑の建っているあたり
☆(2)「試衛館」の碑
☆(3) 近藤勇達が時折参拝した「正一位稲荷神社」
☆(4)「試衛館」のあった側から見た正面の風景
☆(5)「新撰組・青春の地の旗」
 

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半年ほど前に藤沢周平の「回天の門」という小説を読み、数日前に、柴田錬三郎の「浪士組始末」という

短編を読んだ。

前著は幕末の変節漢などと呼ばれた「清河八郎」の生涯について描かれた長編小説である。

後者は幕末に結成された、新撰組の前身ともいえる「浪士組」の顛末記である。

「回天の門」に描かれた主人公の清河八郎も「浪士組始末」に描かれた同人も、これまで伝えられてきた

清河の人と為りについての風説とは、かなり違った角度で語られている。

NHKの大河ドラマなどでは、清河は、従来通り、変節漢、山師、策士といった感じに描かれていた。

これまでの小説や、資料風の伝説の中では、おおよそ、そのような役割を与えられて描かれている。


が、藤沢周平の言葉を借りれば


「清河八郎は今なお悪評と誤解のなかにある。八郎は仕官の途さえ望まぬ、一個の”草莽の士”であっ

た。さらにその時代は、倒幕の機いまだ熟さず、彼は早すぎた志士として生きねばならなかった。

郷里出奔から、麻布一ノ橋で凶刃に倒れるまで、悲劇の孤士として生涯を送った」

のだった。


新撰組に関係のある場所を、私は折を見てぼつぼつと歩いている。

今回訪れたのは、東京都文京区にある「伝通院」という寺院である。

正確に言えば「無量山伝通院寿経寺」だ。

このたびは、上の清河八郎の墓がここにあるということと、新撰組の前身である浪士組が編成された場所

である、という二つの事実に強く惹かれて、東京に出たついでに寄って見ることにしたのだった。


新撰組について書かれた資料には「浪士組」の発祥について、次のような一文がある。


「文久2年12月、清河八郎の発案で幕府は浪士を募集することになった。

翌年3月に「公武合体」のため、将軍徳川家茂が上洛する予定になっていたが、過激家が横行する京都市

中の警護が目的であった。

清河の同志達が募集に奔走し、十両二人扶持の待遇で、尽忠報国の士であれば身分年齢は問わないという

好条件に、翌年1月までに250人もの浪士が集まった。

この中に近藤勇の試衛館門下生も含まれている。

近藤や土方の故郷である武州は、幕府の天領であり、将軍を警護することは、この上もない名誉なことだ

ったのであろう。

2月4日、5日の両日、小石川の伝通院で浪士達が集会し、浪士隊が編成された」


清河八郎については、

「庄内藩の尊攘派志士。江戸の出て、昌平黌に学び、千葉周作の下で剣術を修行。

幕府の浪士募集に応じて浪士隊を結成し上洛したが、京に着いたとたん、攘夷を説いたため、近藤勇等と

対立。江戸に下向後、見回り組の佐々木唯三郎等に暗殺される」


伝通院は地下鉄の後楽園駅から歩いて15分ほどのところにあった。

門を入った突き当りのところに大きな寺院があったが、この建物が伝通院だった。

が、院内の若いお坊さんのお話では、浪士達が集合したのは、この建物ではなかった、という。

門のすぐ左側にあった処静院という塔頭の一つだったが、火災にあって消失し、今はない。

処静院の前に建っていた石碑だけが今も残っている。


清河八郎のお墓は、伝通院の裏の墓地の中ほどにあった。

八郎のお墓の隣に、元遊女で、彼の妻であった阿連のお墓がならんで建てられていた。

阿連も八郎の攘夷の手伝いをしたということで投獄されたが、後に許されて開放されることになった。

が、牢獄から出された直後に死んだ。役人の手で、密かに毒殺された、という説もある。


この墓地の入り口に立てられているお墓の案内板を何気なく見ていたら、この墓地の中に、数日前読んだ

ばかりの「浪士組始末」の作者、柴田錬三郎のお墓がある、という。

ついで、というのも失礼だが、何かのご縁だ。

案内板の地図を見て探していったら、入り口からさほど遠くないところに柴田家のお墓はあった。

「あなたの”浪士始末記”を読ませていただきました」

と言って、手を合わせてご挨拶をした。

そういえば、柴田錬三郎が亡くなって、もう何年たつのだろう・・・

何もかにもが、音もなく過ぎ去っていく・・・



写真について

☆(1)伝通院の門前
☆(2)伝通院本殿
☆(3)処静院・・・・ここに浪士隊250人余が集合した
☆(4)清河八郎、阿連のお墓
☆(5)柴田錬三郎の眠る柴田家のお墓

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今日は本庄市役所に用事があって朝早く家を出た。

例の1日6本しか通らないバスに乗って出かけた。が、思いがけなく簡単に用事が終ってしまい、帰りの

バスの発車時間までに2時間も間があいてしまった。


「そうだ、そういえば、本庄といえば・・・」

新撰組の前身、浪士組が上京の途中、宿泊した場所であったことを思い出した。


文久3年(1863年)2月8日、浪士隊一行、234名は小石川・伝通院を出発し、中仙道を通り京都

へ向かった。

板橋、蕨、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻ノ巣、熊谷、深谷、と通過した。

江戸を出発して、2日目、浪士隊一行は、武州本庄に入った。


その時、近藤勇は、取締付池田徳太郎の手伝い役として道中の宿舎割りを命じられた。

そこで、本隊より一足先に宿所に先乗りして、各浪士の宿割りを決めて置くことになったのである。


先発して本庄へ到着した近藤勇は、一行234名の宿割りを始めた。

近藤についてきた沖田総司、永倉新八と3人で夕方までに何とか部屋割りを完了した。


ところが、このとき、道中言語に絶する我侭、横暴ぶりを発揮して、山岡鉄太郎などの取締役をへきへき

させていた水府脱藩浪士、芹沢 鴨の宿舎を、どういうわけか、取り忘れてしまっていたのだった。

3人とも、本隊の一行が到着するまで、全く気付かなかった。



いざ、それぞれの宿舎へ案内を、という時になって、芹沢の宿がないことに気付いた。

が、時すでに遅し、だった。

取締役の池田も、近藤も、急いで、芹沢のところに行って平謝りに謝ったが、芹沢はそっぽを向いて返事

をしなかったという。

近藤勇はそれでも、芹沢の前に手をついて誤り続けた。

すると、おしまいに何を思ったか、芹沢は

「宿無しも結構でござるよ」と言った。

「その代わり、宿無しには宿無しのやり方がござる。今夜は夜中じゅう篝火を焚かせてもらうことにする

から、よろしく頼む。少々、大焚き火になるやも知れぬ故、驚き召されぬように」



日が暮れると芹沢はすぐに近くから手当たり次第木材を集めてきて、宿の前の広い庭の真ん中に積み上げ

て、それに火をつけた。

火の粉は宿の屋根に舞い上がり、そこらじゅうに降りかかる。

宿の人たちも、周りの百姓、町人も驚いて家を飛び出してくると、水桶をさげて、屋根に上って、火事に

ならないよう防いだ。

その大焚き火の前で、芹沢は酒を煽りながら、仁王立ちになっていた。

近藤勇は、その芹沢鴨の前にぴたりと座り「自分の粗忽である、平に平にお許しくだされ」と誤りつづけ

たという。



その本庄宿の史跡が、本庄市役所の近くにあると聞いた。

私は4階にある文化財などを取り扱っている部署に行った。

係りの人は、パンフと、そこまでの道筋を記した地図をコピーして渡してくれた。

「そこは今、本庄市立歴史民俗資料館になっています。ついでにそこも見ていかれるといいんですが、あ

いにく今日は月曜日で休館日なんです」



私は地図を見ながらそこまで歩いて行った。

約15分ぐらい歩いたかな。

細い曲がりくねった道の途中にその場所はあった。


が、今日休館という歴史民族資料館の前の庭には、大きなクレーン車がいて、何かしら工事を行っている

のだ。ガーガーと大きな音も聞こえてくる。

私は、道の脇に立っている本庄の本陣門をカメラに収めた。

大焚き火は、この門の向こう側の広場で焚かれたのだ。


ここの現場からは、不思議なことに、何となく当時の雰囲気が感じられる。

周りの建物は現代の建築に変わっていても、このあたりを取り巻く道筋が、色濃く昔のままの雰囲気を

残しているのだ。

さすがにもうこのあたりに宿屋は残っていない。

が、昔はいくつもの小さな宿が立ち並んでいた所だっだであろう、と思わされる家家の軒の並びようであ

った。


帰りは中山道を歩いて帰った。

ここはもう、本庄市の主要幹線道路になっているが、その道の両脇に並んでいる店の造りや、古い建物の

脇に建っている土蔵などを見ると、やはり日本の古い時代の風情が自然に思い出されてくるのだった。



☆写真について

1、焚き火事件のあった本庄の本陣門
2、真ん中に立っている人のあたりが大焚き火の現場
3、本庄市立歴史民俗資料館
4、今の中仙道
5、中仙道の脇の何でも屋の店
6、道脇に立っている古い土蔵

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