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確か平成12年の頃だったかと思う。その頃、私は三鷹市に住んでいた。
あるとき、何かの用事で、隣接の調布市に在る布多神社へ行かねばならないことになった。
当時、車は、主にマー元帥の仕事に使っていたので、私は私事には、自転車に乗って走り回っていた。
私が向かう布多神社は、我が家から見て南の方にあった。だから、南に向かうバス通りをひたすら南下していけば、甲州街道に突き当たる。甲州街道に突き当たったら、直角に右に曲がって、つまり西の方角に向かって行けけば自然と布多神社の前に出る。それはきちんと頭の中に入っていた。
それで、その日、その頭の中の地図通りに、南に向かって自転車を走らせて行った。
ところが、深大寺のあたりを過ぎて、丁度調布市の「深大寺町3丁目」あたりまで来た時、南西に向かってやや幅の広い道が延びているのを見つけた。
「あれっ! この道って、いつか布多神社の帰りに、試しにこの道を通って帰ってみようか、ひょっとしたら近道かも知れない」と思って、そのとき自転車で帰ってきた道ではなかったか、と気付いた。
が、果たして、その時帰ってきた道かどうかははっきり覚えてはいなかった。
と、その広い道の脇に、小柄な叔父さんが一人ゆっくり歩いてきて止まった。
頭には帽子をかむり、サングラスをかけて、サンダルを履いていた。
私は直ぐ自転車を降りて、その叔父さんにあいさつした。つまり声をかけたわけだ。
「すみません、私、いま、布多神社に行こうとしているんですが、この横の道を斜めに行ったら、甲州街道へ出てから西に行くより近道ではないでしょうか」
すると、そのおじさんは、
「うーん、布多神社ねぇ。そうねぇ、確かに、ここの道を斜めに行った方が近いんだけどね・・・」
「どういったらいいか、大体の目印を教えていただけませんか」
「うーん、大体の目印かぁ・・・」
と、おじさんはしばらく考えていたが、
「あのね、この道を通って布多神社に行くには、曲がり角がいくつもあるのね。今はこの辺みんな住宅地だけど、昔は農道だった所なんだよ。だから、どの角を曲がって、と言い出したら、いくつも角を曲がらなくてはならないの。
そんなの、多分覚えきれないと思うよ。僕もその一つ一つの角に何があるか覚えてないしさ」
と言ってから、
「いっそのこと、甲州街道へ出て、ぶつかったら西へ曲がって行った方が、間違いが無くていいと僕は思うけどな」
と、結論してくれた。
「そうですか、ではそうします。どうもありがとうございました」と、私は頭を下げて、再び自転車にとび乗った
しばらく自転車を漕いでいたが、ふと、
「あれっ?」と思った。
「あ、あのおじさんの声、どこかで聞いたことがある。いや、あの小柄なスタイルも、どこかで見たことがある。
一体誰だったのだろう・・・?」
あ、そうだ、あの人、谷啓さんだった!
なぜ、そう思ったのか。
私は谷啓さんが、調布市に近い三鷹市に住んでおられることを知っていたからだ。
なぜかというと、数年前、谷啓さんの家が火災に遭い全焼した、という記事を新聞で読んでいたのだった。
その時、新聞に出ていた住所が、調布市に近い三鷹市であることを知ったからだった。
私が”おじさん”に道を聞いた場所は、三鷹市と調布市の境の辺りだったのだ。
私は道を尋ねている時、相手が谷啓さんであることに全く気付かなかった。
もっとも、帽子もかぶらず、サングラスも外していたら、すぐに分かったと思うけれど。
でも、谷啓さんも、自分を「谷啓」と知らずに道を尋ねられたことを、むしろよかったと思っているのではないかしら・・・?
ぶらりと、サンダルで外に出たときくらい、誰からも有名人として眼を向けられないで居る方が気楽でいいのではないか、と思った。
今でも、あの時、「下手に横道に入らずに、まっすぐに行って、突き当たったら西に曲がっていった方が早いですよ」と言ってくださった谷啓さんの、ボソボソとした話し方がふいっと思い出されてくるのだ。
上記のこととは別に、渋い脇役で好きな俳優さんの一人だったから、今回の谷啓さんの逝去は大変に哀しい。
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あの日、あの時の、針穴写真機
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棚の一番奥にしまってあったよれよれのボール箱を開けたら、中には、昔、私たちが子供たちの時代に描いた絵が5,60枚入っていた。
私たち3人姉妹が、主に小学生の頃描いた絵で、クレヨンと水性の絵の具で描かれていた。
多分、私たちが大きくなってこの家を出て行くようになってから、母が3人の娘の絵をこのようにまとめて取っておいてくれたのであろう。
が、どの絵も、時を経て、湿気とカビなどにやられて、絵のあちこちは破れ朽ちていた。
二人の妹達の作品の方が多くとってあったが、その中には私の描いた絵も何枚か混じっていた。
思い返して見ると、もう60年余り以前のものばかりだ。
どんな思いをしながら描いていたかは忘れてしまっているが、それでもその絵を描いた時の気持ちがかすかに記憶の底にある作品が数枚あった。
その作品を、そう、もう60年以前の作品と言うことになるのかな、ちょっと面白いのでアップしてみることにした。
上の2枚は学校の図工の時間に描いた。小六の頃だったかな。
3枚目の絵は、家で遊び半分に書いたものだったと思う。その頃読んだ少女小説の主人公の挿絵のつもりだったように思う。
最後ののスケッチは夏休みの宿題で自画像を描いて来るようにと言われ、鉛筆で描いた。
今思うのだが、自分では、当時の”わたし”によく似ている気がする。
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朝から雨が降り続いている。 |
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ブログ友の低人さんのブログのコメントに「私は鰻を食べない」と書いたら、「なぜですか」という質問 |
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夏休みが終り、二学期が始まってまもなくのある日曜日のことだった。 私は中学一年生。 当時まだ70代だった私の祖父を訪ねて、遠い村のはずれから一人の博労の爺さんがやってきた。 「しばらく、人を一人預かって欲しい」 と、言うことだった。 その詳しい経由に付いては私は知らない。 預かってもらうについては、それなりのお金を払うと言われたらしい。 当時、私の家は働き手の父がおらず、母と祖父母、それに中一の私とまだ小さい姉妹だけだったから、現 金収入を得るということが思うに任せなかった。 家に人を泊めて、毎日三食たべさせて、ある程度の現金を貰うことが出来るなら、預かっても良かろうと いうことになった。 その段階では、まだどんな人をあずかることになるのか、40代の男の人だという以外、誰も分っていな かった。 そして、しばらくして、博労の爺さんに連れられて、一人の男がやってきた。 男の名はUさんといった。 年齢は40代ということだったが、一目見たとき、私は彼の眼に釘付けになった。 うつむき加減に挨拶して、ふとこちらをみたときの目の光り方が尋常ではなかった。 眼は細かったが、三白眼だ。 ジロリ、という感じの見つめ方だった。 Uさんの部屋は茶の間を使ってもらうことになった。 が、食事は別に出さず、三食とも私の家族と一緒に食べた。 ご飯も、お菜も、みな家族と同じものを出した。 はじめは少々戸惑っていたUさんも、だんだん慣れてきてご飯のお代わりも遠慮なくするようになった。 彼の人相は、子供の私が見ても、普通ではなかった。 我が家に遊びに来た近所の友達にも、Uさんの顔は異常に見えたのだろう。 たちまち「眼ギラ」というあだ名が付いた。 ところが、不思議なことに我が家の家族は、そんなUさんの人相などをいっこうに気にしている様子はな かったのである。 祖父は毎晩自家製の濁酒を、Uさんにすすめた。 祖母は時々芋餡を入れて拵えたお饅頭を、私たち子供と同じように、Uさんにも食べさせた。 母はよく自分が女学生の頃歌った色んな歌を、私たちの前で歌って聞かせた。 その様子をUさんは楽しそうに聴いていた。 Uさんのお気に入りは「流浪の民」という本来は合唱用に歌われる歌だったが、母はソプラノの部分もテ ノールの部分も、果てはバスの部分も独りで歌っていた。 当時の我が家の風呂は、木の桶でこしらえた五右衛門風呂というのやつだった。 毎日、一番風呂は祖父が入った。 その次がUさんの番だった。 Uさんがお風呂に入ると、時々祖母が「どれ、ひとつ」と言ってUさんの背中を流したりした。 私は時々Uさんが入る前に、風呂に手桶に一杯水を汲んで足し湯をしてから、火をあまり強くしないよう に追い炊きする役目を仰せつかった。 Uさんは毎日何もしないでブラブラしていたが、ある時、どう話を付けたのか、隣の家の炭焼き窯を借り て炭焼きをすることになった。 炭窯は前の田んぼを隔てた向山の麓にあった。 炭を焼き始めると、焼き終わるまで炭窯に火を焚き続けなければならない。 しばしばUさんは、釜戸の火を絶やさないようにするために、炭焼き小屋で夜を過ごすようになった。 そうしたある日、一人の女性が我が家を訪ねてきた。 20代そこそこのぽちゃぽちゃとした丸顔の若い女の人だった。 「Uがお世話になっています」 と、その女性は戸間口に出た母に頭を下げた。 その女の人の名前は忘れたが仮にAさんとしておこう。 その日からAさんもしばらく我が家に滞在することになった。 AさんはT市で水商売をしている女性で、Uさんの彼女だったという。 が、その時の私はそんなことは全然知らなかった。 我が家にこんな可愛らしいお姉さんが来てくれて、私たちと一緒に暮らしてくれると思うと嬉しかった。 祖父母も母も、夕食の時など楽しそうだった。 いつもより会話が弾んだ、 食事の後片付けも、Aさんは気軽に手伝ってくれたりした。 昼間はAさんも洗濯物を洗ったりり、部屋の掃除をしたりして、自分達の用事が終ると、Uさんの炭焼き の手伝いに向山に出かけていた。 後から考えると、二人はそこで、ひっそりと貴重な二人だけの時間を過ごしていたのだった、と思う。 ところが、この時のトマトは、まだそういう男女のことにとんと、無頓着だった。 学校から帰ると、時々、二人のいる向山の炭焼窯にのこのこ遊びに出かけたのだった。 ある時、学校の国語の時間に宿題が出た。 次の日までに、何でもいい、身近な題材で「自由詩」を一つ作ってくること、というのだ。 学校から帰ると、いつものように私の足はUさん、Aさんのいる炭焼窯に向かった。 Aさんが「あら、お帰り!」と明るい声で迎えてくれた。 私は二人の仕事に邪魔にならないように、火の焚かれている窯の端にしゃがんで、窯口でぱちぱち燃える 薪の炎を眺めていた。 「檜の葉っぱはパチパチパチ、 杉の葉っぱはジュージュージュー」 炭窯の火に放り込まれた、檜と杉の枝が音を立てて燃え始めた。 それを聞いて、私はふいに宿題の自由詩のことを思い出してしまったのだ。 「えっ!それってなあに?」と、Aさん。 私は宿題に明日までに詩を一つ作っていかなければならないことを話した。 「ふーん、詩ねえ・・・」 と、Aさん。 すると、向こうを向いて炭窯に放り込む薪を切っていたUさんが突然振り向いた。 「だったら、その辺の葉っぱを色々火の中に放り込んでみて、その音を詩にしてみたら・・・」 それからAさんと私がしたことは、炭窯の周りに生えている雑木の枝を折ってきて、次々に炭窯の火の中 に放り込む作業だった。 放りこんだ葉っぱが、それぞれみな違う音を立てて燃えたわけではない。 みな似たような微かな音しか立てなかった。 それでも、私とAさんは何度もいろんな葉っぱを燃やしては、その燃える音に必死に耳をかたむけたのだ った。 その時の私の詩がどうなったのかは全然思い出せない。 それより、その数日後、AさんがT市に帰り、そして、さらに数日後、Uさんの姿が我が家から消えたこ とだった。 突然いなくなったUさんについて、私の家族は何も言わなかった。 私もそのことについて、母に何か聞いたと言う記憶はない。 Uさんがいなくなって、どのくらいたったのだったか、はっきり思い出せないが、学校から帰る途中、同 じ字(あざ)の村人からあることを聞いた。 「あんたんとこに住んでいた人は、強盗の犯人だったんだってのん。さっき、手錠をかけられたあの男の 人が警察の人に連れられて、あんたんとこに来ておったよ。今さっき、帰って行ったけどよ」 私がこの件で記憶している最後のシーンはこうだ。 やはり学校から帰ってきたときだったと思う。 家の中に入ろうとしたら、中から祖父のものすごい怒鳴り声が聞こえてきた。 どうやら、Uさんを預かったことに付いてらしい。 「強盗をやった奴だと!よくもそんな人間を人に預けてお前さんはのうのうとしておられんもんよのう! 人を馬鹿にすんもいい加減にしろ、ヤイ!」 というようなことを、何度も何度も繰り返して、怒鳴り続けていた。 その怒り狂う祖父の前にかしこまって平身低頭していたのは、あの博労の爺さんだった。 我が家はその爺さんから、いくらのお金を貰ったのか、今以て分らない。 果たして、あの男の預かり料を、博労の爺さんは支払って行ったのだろうか・・・ |






