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私達三人の姉妹は、父の最期の地を後にして、急いで他のメンバーが乗っている観光バスの一時停車場に |
針穴写真機・拾遺
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鏡泊湖を出発してから、何時間たったのか、先ほど別れを告げてきた父の仕事場だった「中国水力第一発 電所」の滞在中に見たもろもろの風景が、半ば眠りに落ちかけている私の脳裏を順不同な断片となってし きりによぎり続けている。 鏡泊湖から牡丹江までの道のりは、一体どのくらいあるのか・・・ 中国の案内人に聞いても定かなことは分からなかった。 バスの走る道は真っ暗だった。 その闇の中の地平線上に、やがて、うっすらと灯りらしきものが見えてきた。 「あそこが、牡丹江市です」 と案内人が言った。 みんなそのあまりの遠さに、とっさには声も立てず、黙ってため息をついていた。 牡丹工市のホテルに着いたのは夜の11時頃だった。 早々に夕食を済ませ、各自、自室に入ったときには、すでに12時を過ぎていた。 私とすぐ下の妹のナビは、日本から持ってきた日本酒、果物、水、お菓子などを、ホテルのテーブルに並 べ、父のための慰霊祭を行った。 クビは敢えてそういう形式ばった祭祀には参加したくないと言って、独り自分の部屋でそれなりの過ごし 方をしたようだった。 娘のタマは「私はカラオケに行ってくる」 と言って姿を消した。 私はこういうときの「お祝詞」とか「ご真言」の心得については少しはは執り行うことが出来る。が、そ の夜は敢えてそういう形式はとらなかった。 ナビと二人で父亡き後の我が家での出来事や、暮らしぶりなど、もろもろの事実を声に出して語った。 まるで目の前に父が居て聞いてくれているかのように・・・ 妹は泣いていた。 積年の思いが胸を突いて溢れてきたのであろう。 が、私は泣かなかった。 話している間に、私はふとあることに気付いた。 「この世に幸福などというものなど、断じてない」 ということだった。 それは「確信」、あるいは「断定」してもいい。 父の霊前で、私は言った。 「ただね、父さん、(幸福)なんてものはなくても、人間は生きていくことができるんです。目の前に (幸福)がなくても、ある瞬間には、(幸福感)を感じ取るることが出来るようになっているからです。 多分、神様が私達人間をそのように作っておいてくださったからでしょう。 若くして、亡くなった父さんは確かに不幸でした。 が、後に残された母さんはじめ、父さんの両親や、子供の私達だって決して幸福だったとはいえません。 でも、こうやって何とかさまざまな苦境を乗り越えてここまでやってきました。 『じゃあ、今は君達は「幸福」なんだね」』 と、父さんに聞かれれば、少なくとも私達だけでも、『はい、幸福です』と答えるでしょう。 しかし、何が幸福でなにが不幸なのか、実のところよく分からないのですよ。 でも、こうやって、長年の願いだった父さんの足跡を訪ねることができて、いま、私はとても幸せに思っ ています」 私のあとに続いてナビにも、父に思っていることを話すように促した。 が、ナビに言ったことはただ一言だった。 「以下、同文です」 なんてこった、父と話をするのにこうして最高の場を作ったのに・・・ しかたないから、もうここまでで、締めくくることにした。 「父さん、今、私は泣きませんよ。やっと姉妹3人でここまで来れたことを、心から喜んでいます」 すると、またナビが言った。 「私も同感です」 次の朝、朝食を済ませると、いきなり日本からいっしょだった旅行社のRさんと中国人の案内人のEさん が私達妹のところにやってきて言った。 「今日、午前中一番にあなた方をお連れしたい所があります。つまり、別行動になります。急いで玄関 まで来てください」 ホテルの玄関前には、小型のタクシーが2台止まっていた。 中国人の二人の案内人は前の車に乗った。 私達は後ろの車に乗り込んだが、タクシーの中は驚くほど狭い。 そして、いざ出発というとき、運転手が言った。 「ドアの取っ手をしっかり引いていてください。でないと、ドアが開いてしまうのです」 タクシーは小型だけどよく揺れた。 私は必死でドアが開かないように内側にひっぱていた。 タクシーは少し走って止まった。と思ったら、前のタクシーに乗っていた案内人の方が、さっと降りて すぐ近くの店に飛び込んでいった。 そしてすぐ走るようにして出てきた。大きな花束を胸に、もう片方の手にはお酒の壜をさげて。 タクシーから降りるように言われて、私達は降りた。 中国人の案内人のEさんが私達3人に言った。 「ここが、あなた達のお父さんが入っていた刑務所です」 「・・・?」 「そして、お父さんはここで処刑されました」 「・・・・・」 「私達は余り長いことここに居るわけにはいきません。公安に見つかると大変なのです。急いで、あの塀 の前に、このお花とお酒を供えてお祈りをしてきてください。私達は少し離れた所で待っています」 案内人の手から渡された花束を、ほぐして1本づつレンガで造られた塀の脇に供えた。 そしてお酒は茶碗などに入れたりしないで、土に撒いた。 時間がなかった。私達はそこにしゃがんで、あわただしく手を合わせた。 が、あいにく、こんな肝心なときに、慰霊の言葉の一片も口をついて出てこなかった。 ただただ、手を合わせ、心の中で必死に何かを祈っていた。 「父さん、ここまできたら、もう幸、不幸などにいちいちとらわれず、私達はただひたすら、生きていき ますから、見ていてください」 余りゆっくり出来ないといわれていたので、すぐ立ち上がって、案内人の待っていてくださる方へ行こう として、ふと振り向いた。 と、なんとそのレンガ塀のすぐ上の土手が汽車の線路になっているではないか。 そしてその土手には5月の陽が燦燦とふり注ぎ、土手のあちこちにはタンポポの花が咲来乱れていた。 「ここはまだ、刑務所なんですか」と私は聞いた。 「いえ、刑務所は、いまもっと山の中に移しました。それで、ここは今、時計工場になっています」 「ここが時計工場に?」 「はい、そうです。が、今、中国は不景気でこの工場もご多分に漏れず休業中です」 共産圏の国でも「不景気」なんてことがあるんだ・・・などと思いながら、私は「ただ今休業中」だとい う静かな時計工場、いや、私達にとっては父の最期の地をもう一度振り返って眺め、改めて目に焼き付け たのだった。
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朝鮮民族が今も多く住む延吉市を発ってどのくらいの時間が過ぎたのか分かりませんでしたが、鏡泊湖 の湖の辺にある食堂に着いて、昼食をすませた頃には、はや2時を過ぎていたような気がします。 バスは幼稚園バスを少し大きくしたくらいのもので、椅子は板みたいにカチカチで前の席との間が狭く、 身動きが取れなくて、その上広い道はどこまで行ってもでこぼこ道で、従って、バスの揺れ方があまりに 激しかったので、昼食が終わってもみんな頭が空っぽになたように、ぼんやりしていました。 そんなわけで、昼食後のお茶を終えて、バスに戻った時、 「これから、鏡泊湖にある発電所を見学に行きます」 と、案内人に言われても、私はピンときませんでした。 そこまで行くバスの中で、土地の旅行者のガイド氏が鏡泊湖の発電所の説明を、あまり流暢でない日本語 で、説明してくれました。 それによると、この鏡泊湖の周辺には、現在4箇所も発電所が建設されてある、ということでした。 私はひょっとしたら、父の働いていた発電所はその4つのうちのひとつなのかな、と思ったりしました。 あるいは、父のいた発電所はもう50年以上も前に建てられたものなので、もはや壊されて新しく別の場 所に移されているのかもしれない、などと、ガイド氏の話を聞きながらいろんなケースを想像していまし た。 が、いずれにしろ、鏡泊湖の風景を眺めるだけで、発電所の見学をする、というプログラムなどは考慮に 入れていませんでしたので、 「え?、そうなんですか」 という感じでした。 添乗員の方が、発電所の検問所の窓口で、何かしら手の込んだ手続きを取っている間、私達一向はバスを 降りて、のんびりと鏡泊湖周辺の観光案内の看板を眺めていました。 何気なく、その案内板をカメラに納めようとして、シャッターに指をかけた時でした。 私は思わず大声を上げるところでした。 その案内板に描かれている1枚の滝の絵、「吊水楼獏布」と描かれた絵が、子供の頃、父が満州から送 ってくれた絵葉書の構図と全く同じだったからです。 そして、父のいた発電所から、この場所まではさほど遠くないことも、聞いて覚えていました。 「つまり・・・」 これから行こうとしているところが、50年も前に父が働いていた発電所なのだ、と私は直感しました。 そのことをすぐ妹達に告げると、一瞬彼女達の顔に緊張感がよぎりました。 末の妹のクビが、やおらペンとノートを取り出して、ガイド氏に質問を始めました。 「あなたは先ほど、終戦直前日本軍が壊して行った鏡泊湖の発電所の修復に3人の日本人が貢献した、と 言われましたね。その日本人が修復した発電所というのが、これから見学に行くところですか」 「はい、そうですよ。これからいくところです」 「ではお聞きしたいのですが、その修復に貢献したという日本人の名前は、今、分かりますか」 「分かります。下田という人と、川本という人です(いずれも仮名)。でも、あと一人の名前は分かりま せん」 「もしかして、そのあと一人の人の名前は、(せなや)といいませんでしたか」 「さあ、ちょっと分かりません」 「その、(せなや)というのは、私の父親なのですが」 と、妹は必死で食い下がります。 「分からないです。下田と川本という人は確かにここにいたことがはっきりしていますが、あとの一人の 名前は分からないです」 ガイド氏は申し訳なさそうに困惑していました。 「そうですか、分からないのですね・・・」 妹は明らかに気落ちしていました。 すると、先ほどからクビの傍らに立って二人のやりとりを聞いていた私の娘のタマが 「その(せなや)という字を書いてみたらどう? 瀬奈矢なんて苗字は日本でも珍しいくらいだから、中国の人には読めないかもしれないでしょ。 漢字で書けば分かるんじゃないかな」 と言いました。 そこで、妹のクビはノートに父の苗字を書きました。 その字を見たとたん、ガイド氏が叫びました。 「あ、そうです、この字の人です。この人が3人目の日本人です」 そういわれたけれど、妹は「ほんとかな」という目でガイド氏を見つめました。 その顔がガイド氏には明らかに「疑念」に写ったようでした。 彼は慌てて付け加えました。 「ほんとうです、ほんとうにその字の名前の人です。この発電所の修復に貢献した人の名前が載っている (鏡泊春秋)という記録書があります。牡丹工に着いたら、その本の一部をコピーしてあげましょう」 私達の心の中はふいにしーんと静まり返っていきました。 発電所の中の見学はむしろ坦々としたものでした。 発電所の敷地に足を踏み入れて、ふとあたりを見回すと、いくつかの見覚えのある建物の風景が目に飛び 込んできました。 50年もまえに父から送らてきた写真の中の建物が、そのままの形で建っているのです。 聞けば、半世紀も以前に建設された建物がまだそのまま残されていて、修繕を繰り返しながら大事に使わ れているとのことでした。 建物ばかりではありません。 これらの施設を含む一つ一つの風景が、50年前とほとんど変わっていないような気がしました。 こんなことは全く思いも寄らないことでした。 が、現実には予想をはるかに超えた「現実」がそこにはありました。 何かに導かれるように、私はカメラを手に先へ先へと歩いていきました。 「ここぞ」と思い立ち止まって見る風景は、実際には一度も見てはいないはずなのに、すでに何度も見て いるような錯覚に陥るほど、すべてがなじみ深いものに思われました。 発電所の中の機械類もやはり日本軍が残して行った古い機械を修理して使われていました。 その中のいくつかは昭和16年頃、日本から輸送されてきて設置されたものでした。 その機械を製作した「三菱重工」のプレートが、今もきれいに磨かれて貼られていました。 発電所内の案内人はまだ若い青年でした。 その青年に私は日本から持参した一枚の古い写真を見せて、 「この機械のあるところを父が担当していたそうですが・・・」 と言いました。 すると、青年は直ちに「それはこちらです」と言って、その機械の設置されている所へ連れて行ってくれ ました。 「こんな露光不足のボケボケ写真なのによくお分かりになりましたね」 驚いている私を見て、青年は 「当然ですよ、そのくらいのこと分からなくては案内人は務まりませんよ」 と笑っていました。 しばらく私は父の担当していたという機械のまえに立っていました。 工学に全く無縁の私にはその機械がどういう役割を果たす部所なのかも分からず、ただ眺めているだけで した。そこは大変狭いところで、薄暗く、見ただけでは何の変哲もないところでした。 私がそこでしたことは、その何の変哲もない機械の一部にそっと指を触れてみただけでした。 あわただしく一通りの見学が終わり建物の外へ出た時、案内人の青年から、終戦まじかの頃には、この発 電所には、下働きとして多くの日本人が入れ替わり立ち代り働きにきていた、という説明がありました。 その中には、工事中の事故で亡くなったり、敗戦直後の混乱期に中国人の物盗りに殺されたりした方々が おられたということでした。 その方たちの慰霊碑が周辺の改修工事をした時に出土したそうです。が、かの文化大革命の時代だった ため、それは破壊されて破棄されてしまったとのことでした。 すべての見学が終わった時、このツアーの代表のMさんが先頭に立ち、訪中国のメンバー全員で、慰霊の 黙祷を捧げてくださいました。私達の父をはじめ、この地で亡くなられた幾多の邦人のために・・・ はじめ、機会を見つけて私達4人でそっと手を合わせておこうと、ひそかに物陰を探していた所でした。 同行の方々のご厚情が見にしみて、私達はしばらく言葉もありませんでした。 鏡泊湖を後にして、私達は再びあの固いコッペパンのような中国式観光バスの中に戻りました。 バスが走り出してしばらくしてから、何気なく振り返ると、夕暮れの大地の彼方に、今見てきた鏡泊湖の 発電所の建物が黒く小さなシルエットになって、まるで蜃気楼のように宙に浮かんで見えました。 その時、私は見たのです。 あの広大な中国の大地に沈む、真っ赤な夕陽を! ゆっくりと、地平線の彼方に落ちてゆく大きな大きなお日さまは、最後の最後まで真っ赤でした。 「俺は満足だ、この満州の大地に沈む夕陽を眺めて死ねるなんて、俺は大満足だ・・・」 後ろの席の元大学教授の方の独りごとともいえないつぶやきが聞こえました。 恐らくバスの中の全員が、みな同じ思いをかみ締めていたのではないでしょうか。 「さらば、鏡泊湖」 残照に映える溶岩原(らばはら)をバスは牡丹江に向けて走り続けます。 心なしか口数の少なくなった一行を乗せて・・・ ― 完 ― ☆写真について 1・鏡泊湖 2・50年前父から送られてきた瀑布の写真 3・父の名前が分かった瞬間
4・発電所に下りていく階段・この風景もよく父がスケッチして送ってきた。 |
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「一度でいいから、満州にある鏡泊湖という湖を見ておきたい」 これは、私達三人姉妹の四十年来の願いでした。 私達の父は昭和27年に中国の東北地方にある牡丹江という所にある刑務所で刑死しました。 毛沢東率いる共産党の反革命分子摘発の運動が広がるなか、同胞の日本人による密告に遭い、逮捕され、裁判も受けないないまま、銃殺刑に処せられたのです。 が、そうなる以前、父は牡丹江上流にある鏡泊湖という湖の湖畔に、日本軍の手によって建設された水力発電所に勤務していました。 終戦とともに、父は抑留された形になり、家族との文通も途絶えてしまいました。 従って、昭和29年、中国から第三次帰国戦が舞鶴港に入港するまで、父の生死は不明とされていたのし た。 が、その年の9月、帰国船「興安丸」に乗って帰国した人たちから、父の死を知らされました。 その年より2年前、即ち昭和27年に父は牡丹江の刑場で処刑されていたという情報がもたらされたのでした。 父の葬儀はとり行われましたが、遺骨どころか形見になるような物は何一つありませんでした。 が、それはそれで、我が家にとって一つの節目になったことは確かでした。 その父の葬儀から、早や46年の歳月が流れていました。 そして、私達姉妹も、すでに父の享年をはるかに越していました。 時々、父が亡くなった年齢が42歳であったことに思いを馳せることがありました。 「ずいぶん若くして命をおとしたんだなぁ・・・」 と、改めて父の無念の思いをかみ締めることが多くなりました。 父の働いていた発電所は鏡泊湖のすぐ近くにある、という話は子供の頃、母から何度も聞いていました。 発電所の仕事のあいまに、時には父も鏡泊湖の湖辺に足を運んだこともあるに違いないありません。 その鏡泊湖の湖辺にたって、 「私達も、とうとうお父さんが50年も前に見ていた鏡泊湖を見に来ましたよ。 お父さんが眺めたのと同じ風景を、私達もしかと目に焼き付けてかえりますからね」 と、父の霊(たましい)に挨拶できたらそれでよし、ということにしようと、心に決めていたのでした。 1997年の暮れ、名古屋在住の友人を通じて、中国人で名古屋で旅行社を開いている劉さんと言う方を紹介されました。 中国への旅行を専門になさっておられると聞きましたので、出来たら旧満州への個人旅行を手配していただこうかと思い、とりあえず電話を入れてみたのです。 するとどうでしょう。 「来年のゴールデンウィークに中国の東北地方に行くツアーがありますよ。そのツアーは、あなたのおっしゃる鏡泊湖にも立ち寄ることになっています」 私達姉妹は即決で、そのツアーに参加させていただくことにしました。 私達姉妹のほかに、私の娘が一緒に行きたいと言い出して、結局4人が、名古屋から出発される訪中団のメンバーに合流させていただくことになりました。 中国に出発する前日、私達は名古屋空港内にあるホテルに一泊しました。 その夜、私達4人は一つの取り決めをしました。 「今回の私達の旅は、いわばお父さんの慰霊供養の旅ということになるので、単なる物見遊山のためでないことは分かっているけれど、でも、道中は大いに楽しむことにしましょう。 何があっても、涙は禁物、最後まで気を抜かず、大いに食べ、大いに飲んで元気に帰ってきましょう」 エイ、エイ、オゥー! とまでは行きませんでしたが、心はすでに、最初の宿泊地、大連に向かって飛んでいました。 たびの途上の月日ほど早く流れるものはありません。 気が付いたときは、旅も後半を過ぎた6日目でした。 朝鮮族の人達が多く住むという延吉を後にして、いよいよ牡丹工に向けての出発でした。 その途中に我らが目指す「鏡泊湖」があるのです。 本当に、いよいよです。 「はるばる来つるものかは・・・」の心境でした。 途中で私達の乗っているバスがパンクするという思いがけない事故がありましたが、同行のメンバーの中に自動車修理工の仕事に従事している青年がいらして、彼の大奮闘のおかげで、無事に修理完了。 予定より一時間ほどおくれて、バスは再び出発することができました。 満州への道は、日本のように整備されておらず、いたるところデコボコでした。 バスは1時間の遅れを取り戻そうと、あらん限りの馬力を出して走っているように見えました。 「しかし、なんだなぁ、こりゃ、時速30キロってとこだよなぁ」 と後ろの方でつぶやく声が聞こえました。 まさにそんな感じでした。 「鏡泊湖まであとどのくらいかかりそうですか」 と、私は中国人の案内人の人に聞いてみました。 2度ほど聞きましたが、2度とも 「あと2時間くらいかかります」 とのことでした。 なにもかもがアバウトな旅になりそうでした。
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