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私は毎週、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」を見ている。
龍馬をめぐるいくつものエピソードの中で、私は今、佐藤 健が演ずる岡田以蔵という人物の行く末に思いをめぐ
らせている。
岡田以蔵は天保9年(1838)に、土佐藩郷士岡田義平の長男として生まれる。(1939年生まれの私より101
年以前に生まれたことになる。私はいつも、こうやって、歴史に登場してくる人物と、自分との年齢差をあらかじ
め調べておくことにしている)
嘉永元年(1848)に、土佐沖に現れた外国船に対する海岸防備のため、父、義平が藩の足軽として徴募され、
そのまま城下の七間町に住むようになり、以後、以蔵はこの足軽の身分を継いでいる。
長じて、武市半平太(瑞山)に剣術を学び、徳弘幸蔵に砲術を学んだ。
さらに、安政3年(1856)9月、剣術修行のため江戸に出て、鏡心明智流の桃井春蔵に入門した。
その後、一端帰藩し、万延元年(1860)8月、武市に随って九州諸藩を遊歴して剣の腕を磨いた。
文久元年(1861)、武市が土佐勤王党を結成すると、これに加担し、翌2年には藩主山内豊範の上洛に随行。
そして、京阪地域を舞台に「天誅」と称して、佐幕派の暗殺を始め「人斬り以蔵」の異名をとることとなった。
この前後に、以蔵が手にかけた人物には、
井上佐一郎(土佐藩士) 宇郷重国(公家九条家家臣) 賀川 肇(公家千草家家臣) 等がいる。
その翌年、池内大学(土佐藩儒)を殺害した直後、脱走し、江戸へ逃げる。
ここで、以蔵は旧知の坂本龍馬と再会する。龍馬に勝海舟と引き合わされた以蔵は、勝海舟の護衛を命じられ
れる。
そして3月には、勝海舟に随い再び上洛する。
そこで、ある夜、勝海舟を暗殺しようとして、勝等の前に立ちふさがった3人の壮士のうちの1人を斬って、撃退さ
せる。
そのとき、勝海舟に「君は人を殺すことを嗜んではいけない」と戒められた。これは有名な逸話だけれど、その勝
に対して「そういわれても、もし、あの時自分があの壮士を斬らなかったら、あなたは死んでいたでしょう」と、以
蔵に言われて、さすがの勝海舟も返す言葉がなかった、と言う逸話の方は、私は聞いたことがなかった。
ところが、どのような経緯によるものかはっきりしないのだが、その後まもなく彼は幕吏に捕らえられてしまう。
そして京都を追放され、元治元年(1864)、6月、政変の起きた土佐藩へ引き渡されたのである。
これを知った武市半平太は、ある手紙に「あのような安方{やすかた}は早々と死ねばよい」と書いたと言う。
当初、しばしば、以蔵は武市の指示で暗殺を繰り返していた。その以蔵が捕らえられたとなると、自分が率いた
勤王党の暗殺テロの真相がばれることを恐れたのだろう。自分に信服していた牢役人に以蔵に毒飼いをさせた
という説もある。武市は、はじめから以蔵のことを「足軽の分際で」と毛嫌いしていたと言うことだ。
そういうわけで、武市は以蔵に対しては、利用だけしておいて、誠に冷酷な師であったわけだ。
国許で壮絶な拷問を受けた以蔵は、井上等の殺害を自白し、断罪に処せられた。
享年28歳。
以蔵の自白により、多くの同士が犠牲になった。
そのためか、高知県護国神社に合祀されたのは、昭和58年(1983)になってからだと言う。
☆岡田以蔵の辞世の句
「君が為尽す心は水の泡 消えにし後ぞ澄み渡るべき」
現在の以蔵の墓地の写真を載せておきます。場所は高知市薊野駅近郊の山中にある累代墓地です。
俗名・岡田宜振として、埋葬されています。
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歴史の中で
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