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柏崎勝長館跡へ向かう途中西湊町のコンビニに寄った。やけにに混んでいると思ったら、その反対側は「柏崎風の陣」と言う催事の会場で、その分市内は閑散としていた。館跡香積寺の境内に駐車、入口付近に勝長の石碑と説明板が立っていた。又変形した欅の巨木も見られた。
1 所在地 柏崎市西本町3-4-3(香積寺) 市指定史跡
2 概要(現地説明板転記)
伝説によると柏崎勝長公の家は鵜川の粕の大樹の東北にあったと言われている。勝長は柏崎の最初の長と伝えられ、室町時代に成立した「謡曲、柏崎」(榎並左衛門五郎作、後世阿弥が改作して完成した狂女者の謡曲)「柏崎殿」であると言われているが、その詳細は不明である。勝長邸は彼が没後その遺言により、菩提寺であるこの香積寺に寄進され、剣野村から現地に移転したと伝えられている。勝長公の碑は江戸自大の建立であり、内室の位牌は香積寺にある。享保3年(1718)5月22日付、善光寺庚庚申堂別当堂照坊、柏崎勝長と善光寺にまつわる由緒書を受け、寛保3年(1743)には、500回忌が営まれること等、柏崎文化発祥の源として、古くから郷愁の的となってている。
謡曲 柏崎と香積寺
謡曲柏崎は越後国柏崎の豪族が起訴の為、鎌倉に滞在中病死した。一子花若はこれを悲しみ、出家してしまった。その臣小太郎は形見の品々をもって柏崎に帰り、花若の母に事の次第を告げる。二重の苦しみに母は狂乱の体となり、わが子を訪ねて迷い出る。信濃善光寺に辿り着いた女は、夫の後生善所と、わが子との再会を祈ると、折よくこの寺にいた花若と再会を得ると言う物語である。香積寺境内には柏崎親子3人の墓と供養塔がある。近くにある質素なお堂は、柏崎勝長が鎌倉に出向く際に、火災のお守りとして祀った秋葉社で、それを今も守り続けられているのを見ても、庶民の辛苦を訴えた龍主の優しい心が連綿とうけついでる姿がほほえましく思われる。又花若地蔵尊は中野市新町にある。 謡曲史跡保存会
3 訪問日 2017年5月27日
秋葉社 柏崎勝長邸の説明
柏崎勝長供養塔 謡曲 柏崎の解説
左 柏崎勝長公の石碑 館跡に所在する香積寺
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新潟県の城館
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柏崎市米山地内の鴎ヶ鼻と呼ばれるこの地が、恋人岬と呼ばれていると言う。駐車場・レストラン・無料休憩場と中々素敵な場所である。岬ではハート型の愛の誓いが手摺いっぱいに結ばれていた。しかし古くなった愛の鎖も錆びついている。この場所はお台場として絶好の地であり、砲台跡がそのまま現在は恋人岬に変わっている。
1 所在地 柏崎市米山 青海川レストランシーガル地内
2 概要(現地碑文転記) 8代将軍徳川吉宗の孫として江戸時代寛政の改革を行った老中、松平定信は、本領白河とここ柏崎の地を治めていた。また優れた文人でもあり、「楽翁公」として今の柏崎高校の校歌にも歌い親しまれている。開国を迫る諸外国の足音をいち早く気付いた定信は、自らしたためた「柏崎海防指令書」柏崎陣屋へ送り、海防ま備えを指示した。その後この美しい海岸線に無数の台場(砲台)が築かれ、対岸松ヶ崎でも遠く水平線を睨み続けいたと言う。
3 訪問日 2017年5月27日
恋人岬案内板 下段の砲台跡
上段の砲台跡 青年会議所が設置した松平定信とお台場の碑
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国道8号沿い、鉢崎関所跡は何処にあったか、だいたい頭にあったが、海岸際の道とは知らなかった。米山海水浴場への道である。旧柿崎宿から登り坂になる場所に関所跡の碑゛立っていた。その反対側に地元の人の駐車場があったので一時停めさせてもらった。関所跡はもちろん石碑の他遺構は無い。
1 所在地 柏崎市米山地内
2 概要(説明板一部転記) 戦国期、鉢崎関所は当地域の戦略的拠点であった旗持城を擁する旗持山山麓゛海に迫っているという地の利を生かして軍事。治安上の要衝地として重要な役割を果たしていた。宇土時代に入るとこの機能は、高田藩に引き継がれた。ここに立つとなぜここに関所が設置されたか、良く理解が出来るであろう。
3 訪問日 2017年5月27日
関所跡 模擬高田藩定書
関所跡の碑 鉢崎関所跡説明板
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柏崎市春日2丁目に旗本陣屋跡がある。跡地は春日公園となり、周囲は住宅地で2000年に青年会議所が
モニメントを建てた、その他陣屋跡を示すものはない。安藤一族に旗本が多いが、春日陣屋の安藤氏はその中で一番の大身だったようだ。
1 所在地 柏崎市春日2丁目(春日公園)
2 概要(現地碑文転記) 春日は昔から肥沃な地として知られ、江戸時代は幕府の直轄領を経て、旗本安藤出雲守の所領となり、春日陣屋が設けられた。12ヶ村からの年貢を納める蔵が立ち並び、物流拠点として栄えたが、春日騒動の舞台ともなり、多くの領民が犠牲となった悲劇を現代に伝えている。その後、春日陣屋跡に馬市が設けられ、椎谷馬市と並ぶほどの規模で、その流れがえんま市にも受け継がれている。
社団法人 柏崎青年会議所 2000
3 訪問日 2017年5月16日
公園の松林 公園隣り春日神社
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沖見砦は明徳院の裏山に所在する。明静院への経路について15日ネット検索をした。昨年)(2016年)7月26日の集中豪雨で土砂崩れが発生、車両通行止め、徒歩での参拝は可能と、寺院のHPの最初に載っていた。電話してみたが、不在だったので、本日(16日)北陸道大潟PAで電話してみた。駐車場迄通行可能の返事を頂いたので、城ケ峰砦の次に向かった。麓の入口に5月31日迄災害復旧工事で通行止めの看板が出でいたが参道入口の駐車場迄車で登った。明静院は庫裏の上にあり、境内には攻防の弘法の硯石・階段を登ると諏訪大明神・寺院の裏には上杉謙信の墓もあった。参拝後沖見砦と思ったが、登口不明で中止した。それにしても明静院は山中の一軒家、冬買い物は大変だろうと思いながら山を下った。
1 所在地 上越市五智国分2111
2 ナビの設定 所在地とする。
3 駐車場所 寺院下に参拝者要用駐車場有
4 明静院の概要(現地説明板転記)
この岩戸山は神話の昔に大国主命が越の国を治める時に奴奈川姫と共に生活した岩谷です。そして建みな方命(諏訪大明神)をご誕生さぜた処です。これらを祀るため、古代より岩屋の中に神社がありましたが、寛延4年(宝暦元年)4月大地震でかけ落ち、それより横に移し、この神々の他に裏山の飯綱山の飯綱神社、剣神社も併せて祀られています。また僧行基は国分寺建立の際にこの神話時代を追想して、自らこの地に一寺を建立して妙徳院といい子院十一坊もある栄えた寺でしたが、今は天台宗明静院として今日に至っています。この寺の本尊大日如来(僧行基の作)は明治39年新潟県で国宝第一号として指定された立派なものです。
又当山には上杉謙信の基地があり、元和5年高田藩主、松平忠昌よりこの基地に対して12石地、寄贈されております。昭和の始めに多くの宮殿下のご礼拝の地でもあり、この聖地を心静かに巡拝して下さい。
参拝日 2017年5月16日
麓の寺院への入口 沖見砦遠景(上杉謙信時代の砦跡)
明静院駐車場 参 道
境内に立つ岩殿山案内板 明静院
弘法の硯石 天の岩戸
諏訪大明神の参道 諏訪大明神
上杉謙信墓 明静院境内
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