日本の城探訪日誌

関東・東北・北陸地方を中心としています。

群馬県の城館

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前橋城車橋門跡

現地は駐車場が無いので県庁の駐車場を予定していた。しかしこの日はフランス展なる催事で県庁の駐車場は長い車列でどうにもならず、途中から抜け出し市役所の駐車場を借用した。

1 所在地  前橋市大手町2-5-3(日本経済新聞社前橋支局裏)   新聞社の脇から入る。
2 駐車場所  市役所又は県庁の駐車場を借用する。
3 概 要(現地説明板転記)  市指定史跡
 関東四名城にも数えられた前橋城の遺構は大変少なく、現在では県庁周辺の本丸土塁とこの門跡しかない。この門は、城の外曲輪から城内に至る重要な門で、対の石積みの台座は1辺7.7m×4.25m、高さ1.4mである。前橋藩4代藩主酒井忠清の代、(1637〜1681)に2本の柱の上に横木を1本置いた冠木門から櫓の2階を通って門の左右に渡れる渡櫓門に改築され、その後酒井氏の後を継いだ藩主、松平氏が川越へ移城した後もこの門は存続していた。現在の門は、昭和39年区画整理事業により、間隔が狭められ西側の台座が東へ8m移動された。

4 訪問日  2014年11月22日
       車橋門跡入口                             門跡の標柱と説明板
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         門跡台座の石垣と石碑                 近くの本丸跡の群馬県庁
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前橋藩主酒井家墓地

1 所在地  前橋市紅雲町2-8-15 龍海院
2 駐車場所 龍海院駐車場借用
3 概 要(現地説明板転記)    市指定史跡
 大珠山是宇寺龍海院は徳川家康の祖父清康によって建てられ、重臣酒井政親をこの寺の外護者とした。以来酒井氏は龍海院を菩提寺とした。この為、寺も川越、前橋と移転した。しかし酒井氏が姫路へ去っても龍海院はそのまま、この地にあって初代重忠以後の酒井氏歴代の墓所を設けた。酒井氏は慶長6年(1601)重忠が前橋城主になって以来9代150年間にわたって前橋の地を治めた。

追記  山形県の庄内藩主も酒井氏ですが、こちらの酒井氏が宗家でした。
4 訪問日 2014年11月22日
      酒井家墓地入口                     下馬将軍と言われた4代酒井忠清の墓
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           酒井家墓地                     初代藩主酒井重忠夫婦の墓
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   分家 初代伊勢崎藩主酒井忠寛の墓                酒井弾正の墓
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「酒井弾正の墓は坂井家墓地の無縁塔の建つ場所に永年の風雨で崩落の危険が出た為、平成7年5月、一般墓地にあった関係者の墓石と併せ東西の向きを変え西から入る形に変更、現在地に移転した」と碑文にあったが、弾正と言う人物については藩主一族と思われるが説明がなかった。ネットで検索したら庄内藩の亀ヶ崎城代(山形県酒田市に城跡は所在する)に同名の酒井弾正と言う人がいたが、同一人物かどうかは不明でした。

寄居山城

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1 所在地 
 群馬県利根郡片品村鎌田4078
2 現 状 公園
3 ナビの設定 所在地とする。
4 駐車場所 公園駐車場(広い)
 
5 概 要  鎌田南端の片品川の湾曲部に孤立した寄居山にある単郭の城(単郭のように思えなかったが)東西50m、南北40mの山頂を削平し、東西の縁と、南縁の一部に1mたらずの土塁があった。北から東にかけて腰郭もあった。利根地方で寄居の名を残すのは、ここと森下だけで、中世の軍政がここと沼田では異なっていたことを示していると言う。森下の寄居は白井長尾氏系統と推察される。この城の城主は参考書に出ていないが、小中城と関連がないのだろうか。(群馬県古城累址の研究より)
 
 
 
 
 
 
 
 
6 訪問日 2014年5月25日
 
左は駐車場から一段高い第二郭であったような広場。 右は同広場より主郭跡を撮る
 
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左 頂部、主郭跡の広場。 右 主郭跡から第二郭のような広場を撮る。
 
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左 城跡南側下を通る道路から見ると崖端に築かれた城である事が良く分かる. 右 城跡南側道路から片品川へ下る階段。現在使用されているのかどうかは不明。ここから降りてくれと言われたら断る。
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石倉城

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1 所在地 みなかみ町
      石倉字小善 
2 築城時期 文明10
      (1478
3 築城者  上杉顕定  
4 種 別  崖端城
5 遺 講  土塁    
6 掲示物  案内板・
      標柱・説明板
7 駐車場所 城跡入口に1  台分のスペース有
8 概 要
 (現地説明板転記)      石倉城址
 石倉城は、文明10年(1478)平井城にあった関東管領上杉顕定が、故郷の越後との中継地として清水街道に築いたと言う。この頃越後では、顕定の弟守護の上杉房能と守護代長尾為景との抗争が続き、房能は敗死した。弟を討たれた顕定はその子憲房とともに、白井、沼田を落とし、さらに為景を越後に攻め、一旦は越中に追ったが、永正7年(1510)長森原で戦死、石倉城も運命を共にした。城址は大字石倉字小善に在り、利根川に面し、両側を沢で区画された単郭式山城格の崖端城で、150×50mの本郭、堀切、土塁を残している。また南に福泉寺、東南崖丘下に石倉館へ通じる道があり、石倉館は後に石倉三河の居館でもあった。                     月夜野町教育委員会(合併前の町名)
9 訪問日 2013年11月2日
左  石倉城は関越道水上ICを降り、高速道の跨線橋を渡り、突き当りを右折、(左折は水上温泉方向)150m程県道を進むと左手に写真のような標識がある。その次の道を大きく、左折直進すると直ぐ左手に所在する(突き当り民家の裏手となる)標識の立つ県道からも見下ろすと説明板が見えた。車両は城跡入口に駐車可能です。
右  石倉城本郭跡。以前は畑として利用されていたようですが、今は耕作されていないように見受けました。
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 水上町指定史跡 石倉城址の標柱と説明板                   土塁跡   
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新田義貞 首塚

1 所在地 桐生市新里町新川2728(善昌寺)  善昌寺も善昌寺城と言う城跡(別名谷津館)であると群馬県中世城館跡に載っていた。    
2 ナビの設定 所在地とする。          
3  駐車場所 寺院駐車場 トイレ境内に在り
4 概 要
善昌寺城   太平記に出ており、城主は船田氏とある。昭和56年に一部発掘した。
新田義貞首塚 善昌寺の本堂裏手にあり、新田義貞は政略家の足利尊氏と後醍醐天皇のため、京から北陸へ追いやられ越前藤島の合戦で無念の最期を遂げた。その首級を桃井次郎が密かに持ち帰り、新田義貞の重臣船田長門守義昌に預けた。義昌は主君の首級を手厚く葬り、供養のため、この寺で一生を終えたと言われている。(桐生市HP一部抜粋)
5 訪問日 2012年11月25日
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善昌寺本堂・首塚の案内板があります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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首塚は覆屋で保護されている。中に一際大きな塔が義貞の首塚でした。
説明の碑文も首塚前に立てられている。

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