日本の城探訪日誌

関東・東北・北陸地方を中心としています。

福島県の城館

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勿来関

  東北自動車道を郡山方向に走行中、勿来関2kmの看板を見つけた。奥州三関は白川・勿来・念ケ関でなかったかと、思い出し、未訪問はこの関だけだったので、急遽訪問して来たもの。よくわからないがこの勿来関は推定地だったような気がする。

勿来関について
 勿来関は平安時代源義家の「吹く風をなこその関とおもえども・・・・・」の和歌を始め、紀貫之・小野小町・和泉式部・西行法師などおなじみの歌人も和歌を詠んだ有名な歌枕である。江戸時代には水戸・磐城・仙台をつなぐ、浜街道に沿っていくつかの宿場があり、勿来町も浜街道という宿場町が形成されていた。飛島雅宣・西山宗因・水戸光圀・吉田松陰が、この勿来関への想いをそれぞれの胸に風光明媚な当地を訪れている。近代には、源義家の歌碑・芭蕉の句碑が建てられ、斉藤茂吉・徳富蘆花・角川源義・中里介山などが当地に文学作品を残している。                                           いわき市勿来関文学歴史館HPより

訪問日  2015年4月29日
         勿来関公園案内板                    弓掛けの松  二代目
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             源義家の像                     歌碑の道への入口
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             奥州の宮                          関東の宮
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           以下歌碑が続く                         最奥付近
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         源義家の歌碑  駐車場に戻り前を見たら皇紀2000年記念碑が地震で倒れたままになっていた
                     が今は補修が終わっているだろう。
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土津神社

土津神社は広い駐車場と綺麗なトイレを備えた神社で参拝者が絶える事はなかった。福島県外からも参拝者の訪れる、由緒ある神社だ。参拝終了後裏磐梯へ向かった。裏磐梯は三連休の中日とあって大混雑していた。その後磐梯山ゴールドラインを走行したが、ここも磐梯山への登山の車両が駐車場に収まらず、ゴールドライン上に車列が続き、交通整理員が配置されていた。

1 土津神社所在地  福島県耶麻郡猪苗代町  地図に神社が掲載してある。
2 駐車場所  神社参拝者用駐車場
3 概要(現地説明版転記)
 土津(はにつ)神社     会津藩祖、保科正之公を祀り、延宝3年(1675)に造営された神社、その豪華絢爛な様式は日光東照宮にも比されたと言われている。惜しくも戊辰戦争の戦火にあい、焼失してしまったが、明治13年に再建され現在に至っている。保科正之公は、徳川二代将軍秀忠の 子として慶長16年(1611)に生まれ、四代将軍家綱の後見役として20年間幕政の実権を握ると共に、会津藩の好学,尚武の藩風を築いた名君と敬われている。(猪苗代町)

4 訪問日 2014年10月12日
 会津藩祖 保科正之公を祀る土津神社             神社本殿
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拝殿にて参拝、保科正之公の廟所へ向かう。       保科正之公墓・扉には葵の紋有
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会津磐梯山ゴールドライン、こがね平からの磐梯山       こがね平の紅葉
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鶴峰城

福島県猪苗代町に所在する亀ヶ城の北側の丘も城跡である、その又北に会津藩ゆかりの神社があると言う事を何かで知った。裏磐梯に行くついでに鶴峰城、会津藩ゆかりの土津神社に立ち寄って来た。鶴峰城は亀ヶ城と一帯となり遊歩道が整備され管理も行き届き、土塁、堀切も良く残り、気持よく巡ることが出来た。
 
1 所在地  福島県耶麻郡猪苗代町        
2 築城時期 戦国時代
3 遺構   土塁・郭・堀切・石垣        
4 掲示物  説明板・道標
5 駐車場所 亀ヶ城公園駐車場(公園専用駐車場) 
6 慨 要(現地説明板転記)  
福島県指定史跡   猪苗代城跡 附鶴峰城跡
亀ヶ城の別称で親しまれる猪苗代城は、磐梯山麓より猪苗代湖北岸の沖積地へ突出した細長い小丘陵を利用して築かれた中世〜近世の城跡で、この尾根を分断する堀切を境として、北側に鶴峰城跡、南側に猪苗代城跡が立地している。文献では猪苗代城は、奥州征伐の論功行賞によって会津四郡を与えられたとされる佐原義連の孫、経連を初代とする猪苗代氏が代々居城したとされ、その築城年代については一般に建久2年(1191)と言われるが、城跡の構造や出土遺物、「示現寺文書」「異本塔寺長帳」の修復入城の記事から、南北朝から室町期にかけて築城されたものと考えられる。猪苗代氏は、天正17年(1589)の摺上原合戦で伊達方につき、この地を去ることになったが、その後猪苗代城は、天正18年(1590)豊臣秀吉の命により会津に入部した蒲生氏郷によって近世城郭へと改修され、近世を通じて会津藩の東を守る支城として存続し、幕末の慶応4年(1868)の戊辰の役で焼失するまで、当地方の重要地点拠点として機能し続けた。
 又鶴峰城跡は、文献から猪苗代氏代々の隠居城と伝えられているが、当初は猪苗代城の分郭として機能していたと考られ、近世初頭の猪苗代城大改修の際、手が加えられなかったため、柵列や石積虎口などの戦国末期の古い段階の遺構が今も残されている。
7 訪問日 2014年10月12日
駐車場に掲示の亀ケ城公園の内鶴峰城跡部分の案内図
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城跡散策路案内板。蛇(マムシ?・蜂(スズメ蜂?)に注意の立て札有。よく整備されている尾根道を進む
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     本丸北側のよく残る堀切。            本丸東側の土塁
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南郭側から亀ケ城を撮る。ここにも鶴峰城へ登る遊歩道有。 本丸櫓台、帰りは北郭も踏査、駐車場へ
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石伏館

イメージ 1只見町教育委員会発行「会津只見の中世城館跡」の地図に従い只見湖東側の湖畔道路を南下した。只見ダムを過ぎ、間もなく道路沿いに「旧若宮八幡神社の大くり」の標柱が立っているのを見つけた。路上駐車し、階段を登り、左を折れると八幡神社の跡地となる。大クリの場所へは案内柱が有、旧八幡神社境内には大ヤマサクラの巨木も生えていた。間もなく60m程上へ登りつくとその大クリは囲いの中に聳えていた。館跡の神社跡地には特に土塁等の遺構は見つからなかった。元はこの下方、湖となっている只見湖の中に石伏集落があり、ダム造成により家々は移転、集落は消滅したものであろう。館跡の遺構は無くともこの旧八幡神社の大クリの巨木は一見の価値がある。
 
 
1 所在地  福島県大沼郡只見町石伏字後山
2 種 別  館
3 築城時期 正治元年(1199)             
4 築城者  斉藤石見
5 掲示物  旧若宮八幡大クリの標柱・案内柱
6 ナビの設定 只見湖東湖畔道路、只見ダムの南200m付近に設定、道路沿いに標柱が目当て。
7 駐車場所 路上、車両の通りは殆ど無し。
8 概 要
 会津古累記に石伏村柵、東西26間(47m)、南北30間(55m)正治元年(1199)斉藤石見築く、永禄の頃(1558-70)小国監物居る。と記されているが、新編会津風土記には記載がない。石伏の集落はダムの建設により移転し、石伏柵の地を特定出来ないが、かって集落の東、鎮守の社であつた若宮八幡神社に比定出来る。神社は比高25m程の西面する山麓に所在した。ここを本曲輪として付近には腰曲輪状の削平地が5ヶ所程度認められるが土塁・空堀は確認出来ない。
 かって石伏の集落は、只見の集落から沼田街道に別れ60里越えで越後に通じる主要街道であり、中世は交通の要であった。(只見町教育委員会発行 会津只見の中世城館跡より)
9 訪問日 2014年6月21日
道路沿いのこの石伏旧若宮八幡神社の案内柱が入り口となる。 階段を登ると再び案内柱があり左折する。
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館跡であった旧若宮八幡神社境内には表示柱と共に大ヤマザクラの巨木が生えている。館跡に関する標柱等は無い。
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只見町指定 天然記念物 大クリ  クリの木の周囲には柵があり、保護されていた。
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水久保城 その2

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前回2009128日遠景のみとした。しかし何時か城跡迄と思っていたが、その機会がやって来た。只見高校手前、北側の狭い道路を西へ曲がり、列車の通らなくなった踏切を過ぎ、山頂の電波塔、管理道を車で登って行った。最初の内は舗装道路でまあまあであったが、その内舗装も途切れがちになり、車のデフがつかえるような道となって来た。しかも急カーブの場所もあり。電波塔管理の車の通った跡ははっきり着いているが、危険を感じ歩いて保守用の道路を登る事にした。やや広い場所があり、何とか車をUタウンさせ、駐車する事が出来た。車両の前輪は泥だらけとなっていた。天候は昨夜調べたところ曇りで気温が17度〜18度位と出ていたがとんでもない。いつもの暑さと同じである。登って行くと所々の悪路、超急な上り道もあり、乗用車は無理途中に置いて来てひと安心した。電波塔保守の車の通ったばかりの跡は着いているが不慣れな者ゃ排気量のすくない車の通れる道ではない。頂上近くになってきたらブナの樹叢に代わった。薮ではあるが、後で調べたら北曲輪の場所だ。電波塔の下に車両の輪の跡がぬかるみについていた、保守の車がここまで登って来て退き返した後だ。。途中に出会ったらどうにもならない。頂上の最初に登った場所が本曲輪(主郭)で右が薮であるが西曲輪である。その曲輪を降りて南端へ行ってみた。南曲輪である。電波塔で頂上一帯は占拠され、遺構は薮でほとんど確める事は出来なかった。南曲輪の東側に要害山の小さな標柱が立っていた。それが唯一城跡へ登った証拠のようなものだ。只見町の教育委員会が戦国の山城、戦国時代終焉への舞台となった山城の全容、水久保城の遺構と1冊の報告書を出しているわりには、現地では何の説明板も無く物足りない気がした。帰路駐車場所近くで遅い蕨が生えておりしばし蕨取りをして次ぎの予定地へ向かった。
 
訪問日 2014年6月21日
山頂迄車道は続いているが、早めに徒歩で登ったほうが、安全である。登って行くとヒメサユリが咲いており、しばし撮影する。
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略測図の大手道、石垣遺構がある周辺である。 右は途中の眺望でここまで来ると頂上は近い。
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北郭・西郭間に着く。 この反対側が北郭で下は藪、ブナの木が生えていた。右は本郭堀切部分。右側は西郭となる。
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左は本郭で最高所。右は本郭東側下の帯郭。
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南郭は電波塔群となり、小さな只見町要害山山頂の標柱が建っていた。 右はそこからの眺望である。
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左 館跡の只見高校。  右 国道114号からの水久保城遠景。城山右端は秋葉山城との事。
 
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追記 伊達正宗の攻撃にも落城しなかった堅固な山城であったと言う。

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