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稲付城は志村城から5kmの距離であった。城跡の静勝寺の参拝者用駐車場を借用予定であったが、寺のある高台の道でなかった為、参道近くの有料駐車場を利用した。参道前に稲付城跡の石碑があり、階段を登ると山門の前に説明板が立っていた。境内の紅葉も見ごろである。突き当りには道灌堂があり、太田道灌の木像が安置されていた。右手は本堂、奥へとおもったが、廊下橋を潜ると墓地関係でありここで引き返した。
1 所在地 北区赤羽西1-21-17(静勝寺)
2 築城時期 文明年間(1469-17)
3 築城者 太田道灌
4 種 別 平山城 標高20m・比高10m
5 遺 構 無
6 ナビの設定 所在地とする。
7 駐車場所 参道下の有料駐車場利用が便利
8 概 要 都指定旧跡 (現地説明板転記)
稲付城は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡である。昭和62年静勝寺南方面で行われた発掘調査によって、永禄年間末頃から天正10年頃に普請されたと見られる、空堀が確認された。静勝寺に伝存する貞享4年(1687)の静勝寺徐地検知絵図には境内や付近の地形の外、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察する事が出来る。この付近は鎌倉時代より岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点となさっていた。稲付城は街道沿いに三方を丘陵で囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのである。道灌の死後、この城には孫の資高が居城、後北条氏に仕えた。その子康資は後北条氏の
家臣として岩淵5ケ村を所領した。明暦元年(1655)道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めた。その後も江戸時代を通じて太田氏は太道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど、静勝寺を菩提寺とした。
追記 寛政重修諸家譜を見ると大田宗家は五千石の旗本だったようです。
9 訪問日 2016.11.26
参道登口に立つ稲付城跡石碑 山門前の説明板
綺麗に色づいた境内の紅葉、奥が道灌堂 道灌堂に安置されている太田道灌木像
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東京都の城館
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志村城跡の熊野神社が近くなると、付近一帯が道路工事で通行止めが多く、無理かと思ったが、カーナビの案内で、神社の裏側を進んだ事になり、日本電産と熊野神社間の狭い道へ入った。すると熊野神社名の数台可能な駐車場があった。2台分が空いていた。道路工事が幸いした事になるそこから城山幼稚園の脇を通り、熊野神社境内に入った。先ず神社にお礼の参拝後、探訪開始である。本殿と隣のマンション間に空堀がよく残っていた。参道入口には城跡碑と説明板が立っていた。境内には仲のよさそうな初老の夫婦が写真を撮っていた外、ひとけはなかった。
1 所在地 板橋区志村2-16-2(熊野神社)
2 別 名 千葉城・板橋城・篠田城
3 種 別 平山城 標高20m・比高12m
4 築城者 千葉隠岐守
5 遺 構
6 空堀
7 掲示物 石碑・説明板
8 ナビの設定 所在地とし、参道鳥居からは入れないので、城山幼稚園と日本電産の間の(狭い)道路に
設定する。
9 駐車場所 幼稚園の脇から境内に入り停めるか、狭い道路に神社参拝者用の駐車場がある。
10 概 要 区指定史跡 (現地説明板より)
康正2年(1458)千葉自胤が赤塚城へ入城際、一族の千葉隠岐守が入城し、赤塚城の前衛拠点とした。
本丸は志村小学校を中心とした一帯の丘陵地で、出井川と荒川を巡らせ守に易く攻めるに難と言われる堅城であった。大永4年(1524)北条氏綱に攻められ落城した。熊野神社は志村城の二の丸にあたり、社殿は古墳の上に建てられてている。長久3年(1042)志村将監が紀州から勧請したと伝えられ、千葉自胤が志村城の守護神とした。以下略
訪問日 2016.11.26
二の丸跡に鎮座する熊野神社 神社裏側、その奥は崖
良く残る空堀跡 参道入口付近に立つ石碑と説明板
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駐車場所を赤塚公園溜池駐車場としていたが、その駐車場名は確認出来なかった。区立資料館の隣にダンプカーも停まっている駐車場があり、表示はないが、溜池公園駐車場と思って駐車した。ここから溜池公園を通り、西側の丘に登った。ここが赤塚城本丸跡でまだ雪も残っていた。本丸を終わり二の丸跡の東京大仏乗蓮寺へと思ったが、持参した図面を見ながらでもよく分からず、何度か聞きながらようやく乗蓮寺の駐車場に着いた。赤塚城を廻るならこの駐車場を借用すべきと思った。参道を登り本堂で参拝、大仏にも参拝した。寺の紋は葵の紋で、津藩藤堂家も関係があるのか、何カ所かに藤堂家の名が表示されていた。
1 所在地 板橋区赤塚5
2 別 名 千葉氏城・城山
3 種 別 平山城 標高25m・比高10m
4 築城者 千葉自胤
5 遺 構 郭・堀
6 現 状 赤塚公園・寺院(乗蓮寺)・市街地
7 ナビの設定 赤塚5の乗蓮寺
8 駐車場所 乗蓮寺の駐車場を借用する。
注 丘の上が本丸で、石碑有。乗蓮寺が二の丸でここにも石碑有、溜池は水堀の跡と言う。
9 概 要 区指定史跡
下総の名族千葉氏の総領家争いで嫡総家の実胤、自胤兄弟は庶家の馬加氏に追われ、太田道灌を頼って武蔵へ逃げて来た。実胤は下総に近い石浜城に拠り、自胤はこの赤塚のに城を構えた。下総国の奪還は出来なかったが、兄弟は太田道灌の有力な武将として働いている。自胤の後、盛胤・良胤・惟胤と続き、武蔵千葉氏は北条氏に属し、武蔵千葉氏の本拠であった。
10 訪問日 2016.11.26
本丸の赤塚城跡碑と説明板 雪の残る本丸 ようやく着いた二の丸跡の乗蓮寺 境内の庭木は紅葉まっさかり
目立たないが境内入口の二の丸跡碑 本堂の賽銭箱も葵の紋 東京大仏 旗本垣信濃守の墓(千石)
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深大寺城は寺院深大寺の近くで、有料駐車場はお寺の管理と思っていたが、そうではなかった。門前町が開け、民間経営の参拝者用駐車場が軒を連ね、お土産店・食堂で一定額の買い物、食事をした場合、700円の駐車料金が無料となるようだ。由緒ある寺院と分かった以上、参拝する事とした。その後地元の人に深大寺城への入口を聞いたら、水生植物園の看板のある場所からだと教えてくれた。看板の場所から丘の城跡へ登ってみたが、テニス場で、城跡の公園とはフィンスで仕切りがあり出直しとなった。このテニス場は第3郭であると参考書に記載されていた。改めて水生植物園へ行くと丁度開園時間の9時30分であった。城跡は都立神代植物公園水生植物園の中にあるのだ。9時30分開園、16時30分閉園で無料開放されていた。この城跡は平成19年7月26日、都指定史跡から国指定史跡になった。第2郭は芝生が綺麗で、その周囲に土塁、空堀が良く残っていた。第1郭虎口の土橋付近には城跡碑が立っていた。帰路は第1郭から水生植物園へ下り、植物園を通って駐車場へ戻った。水生植物の鑑賞の季節は概に終わっていた。
1 所在地 調布市深大寺元町2(神代水生植物公園)
2 築城時期 創築不明・再興天文6年(1537)
3 再興者 扇谷上杉朝定
4 種 別 平山城 標高50m・比高14m
5 遺 構 郭・空堀・土塁・土橋
6 掲示物 案内板・城跡碑・説明板・標柱
7 ナビの設定 深大寺・又は植物園とする。(地図に有)
8 駐車場所 周辺に有料駐車場多い。1日700円(買い物は無料)
9 概 要(現地説明板転記) 国指定史跡
深大寺城は、天正6年(1537)扇谷上杉朝定が北条氏綱に奪われた江戸城奪還等、退勢挽回を目指し古城を再築したものであるが、北条氏に直接本拠地川越城を攻め抜かれたことから、その役目を果たすことなく、同年7月に廃城となった。深大寺城は国分寺崖線縁辺の標高50mに位置する連郭式の中世城郭である。城
跡の崖下には、野川北岸の立川面が広がり、東側は開折谷の湿地帯が広がっていた。昭和34年から昭和41年にかけて、第2郭を中心に発掘調査が実施され、建物跡や再建前の城郭のものと推定される空堀等が発見された。また平成17年には城跡公園西側から第3郭を区画する堀が発見され、深大寺城の全体像が判明した。第1郭・第2郭部分が城跡公園として公開されている。
10 訪問日 2014年10月23日
周辺案内図
古刹 深大寺 最初登った第3郭のテニス場 9時30分水生植物公園開園・城跡を目指す 広い第2郭
第1郭を取り巻く土塁と空堀 深大寺城概略図
第2郭北西側の二重土塁と空堀 第1郭虎口土橋付近に立つ城跡碑と説明板
主郭の第1郭 水生植物園からの深大寺城近景
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ナビを氷川神社に設定した。公園駐車場と思ったが見つからず、神社前迄来てしまった。車の駐車も少なかったので、あつかましく神社駐車場を利用させてもらった。神社の直ぐとなりが本丸跡で、遺構保護の為、柵が巡り立ち入り禁止であった。城跡は氷川神社・都営石神井公園となって多くの人で混雑していた。この時期カメラマンも多い。帰路公園駐車場前を通ったが、満車。神社の駐車場を利用させてもらったのは幸いであった。
1 所在地 練馬区石神井1 石神井公園・氷川神社一帯
2 種 別 平山城
3 築城時期 鎌倉時代か?
4 遺 構 土塁・空堀・郭
5 掲示物 城址碑・説明板
6 ナビの設定 氷川神社・石神井公園(地図に有)
7 駐車場所 公園駐車場
8 概 要(現地説明板転記) 都指定史跡
石神井城は秩父平氏の一族で、石神井流域を中心とする、現在の東京都練馬区北側の地域に平安時代末期から室町時代中期頃まで勢力を持っていた、豊島氏の居城だった。石神井川と三宝寺池に挟まれた標高約49mの舌状台地に所在し、東西約350m、南北約350m。主郭と副郭からなる比較的単純な中世城館である。昭和31年以降、数次の発掘調査によって、主郭や土塁上から12世紀から16世紀前半までに属する陶磁器が出土している。文明8年(1476)の長尾景春の乱の際、当時の城主豊島泰経は景春に余したので、扇谷上杉氏の家来太田道灌に攻められる事になり、翌年石神井城は落城した。落城後泰経が白馬に乗って三宝寺池に深く沈み、長女輝姫も後を追って入水したなど、落城に伴う伝説が伝えられている。 (東京都教育委員会)
追記 泰経は白馬に黄金の鞍を置いてまたがり、三宝寺池に深く沈んだが、金の鞍は今も池底にあって、以来晴天の日に池畔の松の梢に登れば、燦然と輝くのを見る事が出来ると言う伝説もある。又二人を葬ったとされる殿塚・姫塚さえある。
9 訪問日 2014年11月22日
石神井城実測図(現地説明板抜粋)
主郭の空堀と土塁 三宝寺池畔に立つ城跡碑と説明板 三宝寺池に架かる木橋 三宝寺池を挟んで主郭近景
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