日本の城探訪日誌

関東・東北・北陸地方を中心としています。

三重県の城館

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伊賀上野城

1 所在地  三重県伊賀市丸之内

2 別 名  白鳳城

3 築城時期 天正13年(1585)

4 築城者  筒井定次

5 遺 こう 郭・本丸・石垣・濠

6 概要
 安土桃山時代の文禄年間(1592〜1596)筒井定次が上野台地に伊賀上野城を築いた。定次は養父、順慶の病没後、天正12年に豊臣秀吉から伊賀国を与えられて入国し、翌13年から築城を開始した。最高所に本丸を置き、東の丘陵とは堀切で区切り、西に2の丸、北の山下に3の丸を設けた。大手は3の丸の北谷口に置き、土塁上には2の丸櫓・2重櫓・土手櫓・巽櫓・菱櫓・太鼓櫓・宗旨櫓等10櫓を設けた。秀吉の死没後、定次は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦に先立つ徳川家康の会津遠征に従軍したが、慶長13年に秀吉の遺児秀頼に通じていた事が発覚し、家康に領地を没収された。同年、伊賀、伊勢8郡を与えられて伊勢国安濃津城に入った藤堂高虎が、大阪の豊臣方との決戦に備えて伊賀上野城を修築した。西側に高石垣を築き、天守の建設も進めたが、完成間近に大暴風で倒壊し、大阪夏の陣(1615)は徳川方の勝利に終わった為、再建の機会を失った。城は藤堂家の伊勢津藩支城として明治を向かいた。現在、本丸と北方の諸曲輪の地形は、ほぼ残っている。(日本の名城/碧水社より)

7 探訪写真 (撮影 2000年10月8日)
★ 模擬天守
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★ 藤堂高虎の築いた高石垣
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★ 藩校の門と塀
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亀山城

1 所在地  三重県亀山市本丸町

2 別 名  粉蝶城

3 築城時期 天正18年(1590)

4 築城者  岡本宗憲

5 遺 構  天守台・多聞櫓・石垣・堀

6 概要
 平重盛の子資盛は、平家滅亡後、鈴鹿郡の久我に流されたが、その孫実忠は、軍功によってこの地の地頭になり、関(亀山市下山町)に居館を築いて関氏と称した。のち、南朝に味方した関盛政の時、5人の子を領内に配した。3男が関氏を継ぎ、他の4人は夫々新たに居城を築いて新たな姓を名乗った。すなわち、神戸氏・国府氏・かぶと鹿伏兎氏・峯氏である。この5家は関の5大将と呼ばれ、結束して約200年間、勢威を振るった。
 戦国時代になると、関盛信は織田信長に降り、その子一政は豊臣秀吉に仕えたが、天正18年(1590)蒲生氏郷が会津へ転じたのに従って、奥州白河で5万石を領した。亀山城には岡本宗憲が2万2千石で入ったが、城が腐朽している為、新たに亀山城を築いた。それまでの城を亀山古城と呼ぶ。新城は、本丸・2の丸・東と南の3の丸からなり、3層の天守閣を建てた。
 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際、宗憲は西軍に属して滅び、以後、亀山城主はめまぐるしく代わったが、延享元年(1744)から石川氏6万石が続いて明治になった。その間の寛永9年(1632)三宅康盛が城主の時、幕府は堀尾忠晴に丹波亀山城の修築を命じた。忠晴はこの亀山城と間違いて天守閣を解体したが、幕府はこれ幸いと再建を許さなかった。同13年、本多俊次が入って大いに修築を加え、粉蝶城とも呼ばれるようになった。
 遺構のうち多聞櫓は、正保年間(1644―47)に建てられたもので、三重県下でただ一つ現存する城郭建物である。(日本の名城・古城事典/TBSブリタニカより)

7 探訪写真 (撮影 2000年10月8日)
★ 三重県内に唯一残る城郭建物遺構多聞櫓
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★ 2の丸御殿説明板
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★ 亀山城の説明板
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★ 家老加藤家の長屋門
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津 城

1 所在地  三重県津市丸の内
近畿名古屋線新町駅より徒歩10分

2 別 名  安濃津城

3 築城時期 元亀元年・慶長16年

4 築城者  織田信包・藤堂高虎

5 遺 構  本丸・西の丸・天守台・石垣・濠

6 概要 
  早く、この地に長野氏が築城したと言われるが定かではない。確かな事は織田信長の弟三十郎が養子として入り、長野信兼と名乗り天正8年(1580)5層の天守がそびえる津城を完成させた。完成すると三十郎は長野氏の分家を攻撃、中伊勢を手中に収めると織田信包と称した。信長の死後、豊臣秀吉に仕え15万石を得たが、文禄3年(1594)丹羽柏原に転じ、代わって富田知信が6万石で入城した。その子信高は関ヶ原の合戦で東軍に属し、毛利秀元との合戦の功を認められ2万石加増された。慶長13年(1608)富田信高は伊予宇和島へ移りかわって、藤堂高虎が22万石で入り、伊賀上野城を本城とした。しかし高虎は天険の伊賀上野城は戦争の時の本拠とし、平素は津城を居城とした。慶長16年(1611)津城の大改築を行い、城容はいっぺんに改まった。まず、本丸の北側を広げて3層櫓3つを建てたが、先の戦闘で焼失した5層の天守は再建しなかった。この他外郭を拡張するなど、全体として城郭の規模を大きくしたが、特に城下町の整備には目を見張るものがある。歴代藩主も藩祖高虎にならって城下町の育成につとめたので、町は急速に発展、伊勢神宮への参拝客が津の町繁栄ぶりを全国に伝え、「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」と喧伝されるようになった。
 藤堂高虎は、元和元年(1615)の大阪城落城後、加増されて32万石の太守になり、以後子孫が継いで明治維新を向かえた。明治に入ると本丸の櫓などは売られてしまったが、昭和33年(1958)3層の櫓が復興されて、往時を偲ぶ事が出来る。本丸跡には藤堂高虎を祀る高山神社が建っている。(日本の名城・古城事典、TBSブリタニカより)

7 探訪写真 (撮影 2000年10月8日)
★ 復興三階櫓
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★ 津城説明板
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★ 石垣と水濠
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★ 城内の日本庭園
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★ 藩校 入徳館の門
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