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1 所在地 青森県東津軽郡外ヶ浜町字三厩本町 2 寺 名 龍馬山 義経寺 3 由来概略 義経は衣川で藤原泰衡の急襲を受けて自刃した事になっているが、この地より蝦夷地に渡海してと言う伝説が残っている。(ジンギスカーンになった伝説もあり) 江戸時代初期僧、円空がこの地で仏像を彫りお堂を建て祀ったのが義経寺となった。 4 参拝写真
★ 義経寺表門 ★ 義経寺仁王門 ★ 義経寺手洗い堂 ★ 義経寺本堂 |
青森県の城館
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1 所在地 青森県弘前市白銀町 2 別 名 高岡城 3 種 類 平山城 標高46m 4 築城時期 慶長16年(1611) 5 築城者 津軽信牧 6 遺 構 郭・堀・土塁・石垣・天守・櫓・城門 7 概要 国指定史蹟 建物9棟 国指定重要文化財 津軽氏初代為信は津軽地方を支配下に置き、南部氏より独立した。豊臣秀吉の奥州仕置を経て、弘前藩の基礎を築いた為信は、大浦城・堀越城へと本拠を移し、さらに領国支配の拠点として弘前城築城を計画したが本格的な築城工事は、為信の死後2代信牧の慶長11年にからとなる。旧城の堀越城の資材を再利用するなど、徹底的に効率化を図り城の中心部は僅か1年で完成している。寛文期(1661―73)から4代信政は城下を含めた整備を行い現在見られる城及び城下が完成した。戦火をみることなく津軽4万7千石の居城として明治を迎いていた。(江戸300藩 城と陣屋より) 8 探訪写真 (撮影 1996年9月15日)
★ 弘前城案内図 ★ 北の郭側からの蓮池 ★ 西郭の大銀杏 ★ 桜並木 ★ 西郭より蓮池・本丸を望む ★ 亀甲橋よりの北門 ★ 東門 ★ 丑寅櫓 ★ 東内門、内側より ★ 2の丸 与力番所 ★ 大手門 ★ 3の丸側より見た大手門 ★ 南内門と杉の大橋 ★ 南内門 ★ 2の丸側よりの南内門 ★ 辰巳櫓 3の丸植物園入口から見る ★ 辰巳櫓 ★ 末申櫓 ★ 下乗橋と天守閣 ★ 下乗橋からの天守閣 ★ 亀の石側から見た天守閣 ★ 本丸からの天守閣 ★ 4の丸からの丑寅櫓 |
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1 所在地 青森県青森市浪岡町浪岡 2 種 類 平城 3 築城時期 室町時代 4 築城者 北畠顕義 5 遺 構 郭・土塁・空堀・井戸 6 概要 国指定史蹟 南朝の柱石として活躍した陸奥守・鎮守府将軍北畠あきいえ顕家の流れを組む北畠あきよし顕義が築いたといわれる。浪岡御所と称される北畠氏は、16世紀に入ると大浦・大光寺氏とともに勢威をふるった。だが永禄5年(1562)に一族の川原御所北畠具信に9代具運が殺害された後衰運に向かった。天正6年(1578)10代顕村が、大浦為信に浪岡城を攻略されて割腹し、浪岡御所は途絶え、城も荒廃した。現在城跡は平城の郭や堀、土塁井戸跡が残る。 (日本の名城・古城事典より/TBSブリタニカ) 7 探訪写真 (撮影 2001年4月29日)
★ 浪岡城跡全体図(浪岡城資料館にて) ★ 城跡の郭と空堀・土塁 ★ 郭・空堀・土塁 |
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夕方城跡に着いた為、本丸の復元館は、閉館していた。 1 所在地 青森県八戸市根城 2 種 類 平城 3 築城時期 建武元年(1334?) 4 築城者 南部師行 5 遺 構 郭・空堀・土塁・表門 6 概要 国指定史蹟 築城の時期ははっきりしていないが平安時代後半頃、つまり南部氏が入部以前当地方の豪族、工藤氏等の施設を修築し、除々に拡大し現在残っている姿ににったのではないかと、思われる。 この城に南部氏が居住した期間は、4代師行の築城期から寛永4年(1627)に22代南部直栄 (八戸直義)が岩手県遠野へ移封される293年間と考えられる。この期間特に名高い事は、この根城に居城した南部氏が、南北朝時代に最後まで宮方の南朝方として活躍した事である。つまり、師行・政長・信政・政光の5代の期間であるが、5代政光の時、南北朝は合体となり、以後甲斐の本領から離れ、この地に居城する事になったのである。天正18年に豊臣秀吉が小田原の北条氏を討伐の時、三戸南部氏の城主信直が参陣し、領地を安堵された。以後根城南部氏は三戸南部氏(後の盛岡南部氏)の支配下に入った。そして、翌19年の九戸政実の乱では、南部信直の有力な支援者として活躍したが、三戸南部氏がこずかた不来方城(盛岡城)築城後、信直の子利直の要請によって、直栄の時代に岩手県の遠野に移った。城郭は豊臣秀吉の諸城破却令によって破却された事になっているが、寛永4年まで居城していたことは、破却が全体に渡ったことではないのかも知れない。(日本城郭大系より) 7 探訪写真 (撮影 2002年5月3日)
★ 表門 ★ 本丸模型 ★ 本丸空堀 ★ 本丸柵 ★ 中郭の復元建物 |
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1 所在地 青森県三戸郡三戸町梅内 2 別 名 留ヶ崎城・三戸高城 3 種 類 山城 4 築城時期 永録年間(1558―69) 5 築城者 南部晴政 6 遺 構 石垣・空堀・土塁 7 概要 三戸盆地の中央、馬淵川と熊原川の合流点に位置する三戸城は、のちに盛岡藩主になる三戸南部氏の本拠として、24代当主と言う南部晴政が築いた。南部氏の祖とされる信濃三郎光行は、甲斐源氏の流れをくみ、源頼朝に従って活躍し、藤原氏滅亡後、ぬかのぶ糠部(後の三戸郡、北郡)九戸、津軽等5郡を与えられ土着した。鎌倉、室町時代には、八戸に本拠を置く八戸南部氏が近隣に勢威を振るったが、康正年間(1455―56)以降三戸南部氏の勢力が急速に台頭し、晴政の父安信の時に最盛期を迎えた。但し三戸南部氏の所伝が明確になるのは、晴政の代になってからである。理由は、晴政が居城していたしょうじゅじ聖寿寺館(本三戸城、三戸郡南部町)が、天文8年(1539)家臣赤沼備中の放火で炎上し、系図等も焼失してしまったからだと伝えられている。その後、永禄年間(1558―69)に晴政は、独立丘だが自然の湧水に恵まれた留ヶ崎に三戸城を築いて移る。本丸に相当する部分は淡路丸と呼ばれ、居館や庭園を設け、本丸北東部には武器庫、米蔵、台所等配されていた。本丸の北方に谷丸があり、他にも削平地が設けられ、本丸と谷丸の境や大手筋の綱御門と搦め手筋の鍛冶屋御門付近等に石垣を積んだ。 三戸城と城下町の形態は、晴政ののち晴継を経て三戸南部氏26代当主となった信直の時代に整えられた。信直は豊臣秀吉に本領を安堵され、天正19年(1591)くのへ九戸まさざね政実の乱後に和賀等3郡が加封され10万石を領し、三戸から九戸城に居城を移した。その後三戸城は南部氏の城代が置かれ、元和の一国一城令後も破却されず、貞亨年間(1684―87)からは代官が駐在するようになった。(日本の名城・古城事典より/TBSブリタニカ) 8 探訪写真 (撮影 2002年5月4日)
★ 城跡に建つ、城郭風建築の資料館 温古館 ★ 復元された網御門 ★ 町内法音寺に移築された、伝三戸城、搦め手門 ★ 町内龍川寺に移築された、伝三戸城、表門 |
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