日本の城探訪日誌

関東・東北・北陸地方を中心としています。

宮城県の城館

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 以前訪問済みであるが、白石城主片倉家の墓所へ立ち寄った。駐車場に片倉家の礎を築いた少納言喜多の墓、及び真田幸村の娘の関係する田村家の墓の案内板が掲示されており、参拝して来た。

訪問日 2017年6月13日

少納言喜多の墓  
             案内板                           喜多の墓
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田村家の墓
             案内板                           田村家の墓
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新沼館

1 所在地  大崎市三本木新沼字下沖
2 遺構    無
3 掲示物  標柱
4 ナビの設定  昭文社 県別マップルに載っており、画面で設定した。
5 駐車場所   標柱付近
6 概要   平城で幾重にも土塁や堀で囲まれた要害であったと地形から予想される。古書書き上げと言う書籍に城主は新沼甲斐・風土記には上野甲斐とあり同一人物とされている。天正16年伊達軍が大崎征伐の為、当地方に侵攻した。新沼甲斐は伊達家家臣遠藤氏との関係から当城は伊達軍の拠点として使われた。しかし伊達軍が敗れ、本城での籠城を余儀なくされ伊達家にとって遺恨の残る新沼城であった。

7 訪問日  2017年6月13日
   集落内に何か所か、案内標識があった。        新沼館跡、跡地を示すのは標柱のみ
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大松沢所

 江戸時代の居館跡は宅地や畑となって遺構は消滅していると言うが、中世の城跡は大窪城公園として残っている。入口に着くと公園の石碑がある。宮城県の城跡は何処でも手入れがよいが、ここも同様である。公園迄の道もよかった。

1 所在地  黒川郡大郷町大松沢字上町(大窪城跡公園)
2 築城者  宮沢掃部
3 種別    山城 標高70m
4 遺構    郭・空堀・井戸
5 掲示物  説明板・案内板・石碑
6 ナビの設定  (大窪城) 大郷町真坂11の東側道路とする。
7 駐車場所 公園駐車場
8 概要  町指定史跡
  中世には宮沢氏がこの地方を領有していたが、後に伊達氏に服属して名を大松沢氏と改称した。江戸時代にも引き続き大松沢氏が610石で拝領したが、居館は大窪城の山麓に移転した。居館跡は宅地や畑となっているが、山頂の大窪城は遺構も良く残り、大窪公園として整備されている。

9 訪問日 2017年6月12日
                 二の丸 説明板から抜粋した概略図
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            公園入口                         駐車場は広い
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       堀切を渡ると二の丸となる            二の丸・二の丸には八坂神社も鎮座していた
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        二の丸から本丸を見る                二の丸から三の丸を見下ろす
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       本丸・本丸には井戸も残る                 本丸からの眺望
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不動要害

 最初に不動要害の門が移築されている皎善寺へ訪問、その後狭い道路沿いにある要害跡に行く。駐車場は無いが入口付近に何とか駐車出来た。平場にもかかわらず、これだけ城跡を残しているのは貴重な史跡である。

1 所在地  遠田郡美里町不動堂字西舘283
2 別名    西舘・鶴頭城
3 ナビの設定  美里町西舘37の南側にある鶴頭公園とする。
4 駐車場所   公園入口に僅かなスペース有。小型1台なら可。
5 概要      本丸は鶴頭公園・西舘は住宅・外堀は埋め立てられて一部痕跡があるらしい。内堀は水路として残る。内門が後藤家菩提寺皎善寺霊廟門として移築現存している。中世には葛西氏家臣が居住したが、江戸期は要害として伊達氏家臣後藤氏が最初700石・後1,100石で明治迄居住した。
6 訪問日 2017年6月12日
       移築現存内門                         水路として残る内堀
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       本丸跡の鶴頭公園入口                        説明板より一部抜粋
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           鶴頭城跡の碑                       公園内に鎮座する神明社
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松山所

 最初江戸時代の居館のあった松山中学校へ行く、現在は特に何も残っていない居館跡と思ってグランド、中学校の建物を撮った。次に中世からの千石城である御本丸公園へ向かった。しかし公園に設定したのであるが、カーナビの案内場所から城跡へは行く事が出来なかった。とうしたものかと近くの市営駐車場へ立ち寄った。大きな町の案内図が立てられていた。その中に「コスモス園」とひと際大きな文字で書かれているのが、目指す千石城でようやく公園駐車場へ着くことが出来た。催事が無いので更に広い三の丸迄車で登る事が出来た。三の丸跡の脇に櫓台跡のような高い土壇があったので登って見たりもした。本丸へと案内板があり、手入れも良い。本丸、二の丸の順に廻り戻って来た。三の丸迄戻ると背広にネクタイ姿の人が軽トラックに乗ってやって来た。本丸迄行って来ましたかと、話掛けられた。遺構の良く残る、又手入れの行き届いた千石城であった。最後に茂庭氏の菩提寺「石雲寺」に拠る。自宅に戻り取材結果を整理するにあたり、大きな間違いのあった事を知った。江戸時代の居館跡は松山中学校では無く、松山高校だったのだ、参考にした2002年東京堂出版「国別・城郭・陣屋・要害・台場事典」の内容に間違いがあったのだ。少し残念だったが、急ぎ取材も反省点が多い。
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1 所在地  大崎市松山千石
2 千石城の別名 文覚館・松山館
3 種別    山城 標高80m・比高30m
4 遺構    土塁・堀切・郭
5 掲示物   案内板・説明板・標柱
6 ナビの設定
  江戸期の居館(上野館) 大崎市松山千石字松山1-1(県立松山高校)
  千石城   地図で御本丸公園と記載されている。千石地内の市営駐車場の反対側に「コスモス園入口」の看板が有る。千石城三の丸跡がコスモス園です。
  茂庭氏菩提寺石雲寺  松山千石大欅90 茂庭氏廟所  境内に高野槇の巨木有り。
7 概要  中世の松山は千石城を居城とした遠藤氏の所領であった。伊達氏の大崎攻めでは伊達軍の拠点となり、その後伊達氏家臣、石川・古内氏が入城したが、慶長8年(1603)る。茂庭氏が拝領すると三の丸に居館を設けた。寛永8年(1631)城下に下屋敷を設けたが、明暦8年(1657)下屋敷に移り、千石城には留守を置いた。下屋敷は上野館と呼ばれ、以後茂庭氏が明治迄居住した。石高は13,000石に達した。

8 2017年6月12日
       千石城への道                             説明板
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        三の丸(コスモス畑)                     三の丸の土塁
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        三の丸の道標                            奥が本丸
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        本丸・二の丸間の堀切                         本丸
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             二の丸                     石雲寺 茂庭家廟所入口
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