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2016年10月8日最期の訪問地、曇空の元、日暮れとの競争だった。なんとかISOの感度を上げて撮影出来た。
1 所在地 福井県坂井市三国町梶
2 種 別 台場
3 遺 構 石垣・土塁
4 掲示物 石碑・説明坂
5 ナビの設定 地図にも載っており、ナビの画面で探り当て設定した。県道7号を東尋坊から右方に海岸線を走り、右手に休暇村三国を過ぎ、600m程進むと丸岡藩砲台跡の案内板左手にある。吉崎御坊方面から行った場合は砲台跡は右手になる。
6 駐車場所 専用駐車場が用意されている。
7 慨 要 国指定史跡 嘉永5年(1852)2月に作られた。全国に1,000ヶ所築城された台場は、明治維新後殆ど破壊され、昭和初期には品川沖数基と、開発の遅れた地方沿岸の僅かな遺構しか残っていなかった。この梶台場も全国でも珍しい台場として現存している。
8 訪問日 2016.10.08
海岸線に並ぶ砲台 この石積みの間が台座で大砲を据えた
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福井県の城館
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越前大野城を再訪し、吉崎御坊へ向かう、距離は、62kmあり、長かった。本願寺吉崎別院前の大駐車場に着いた。勉強不足で、吉崎御坊は大伽藍が建っていると思っていたのがそうではなかった。ここからどないしたものであろうと、しばし思案にふける。ナビの吉崎御坊の場所を良く確める。小学校の脇を通り、竹林の道を右折、その突き当りに駐車場があった。所謂ここが吉崎御坊の跡であった。色んな石碑が並んでいた。帰り際、アベックが下から登って来た。下からの道もあったのだ。
1 所在地 福井県あわら市吉崎1(吉崎御坊跡)
2 種 別 城郭寺院 標高40m
3 ナビの設定 あわら市吉崎2-902(吉崎御坊)
4 駐車場所 御坊跡・国道305号沿いに大駐車場有
5 慨 要(あわら市HPより) 国指定史跡
御坊跡の吉崎山は海抜33m、広さ20,000㎡。本願寺第8代門主蓮如は比叡山延暦寺との敵対関係から逃れて文明3年(1471)この地に御坊を構え、真宗教団の再興に貢献した。布教の手段として「御文(御文章)」と「講」をもって信心と布教を定着化し、本願寺の財政再建と門徒拡大をなしえたが、他派寺院の嫉妬を招き、側近の裏切りや朝倉氏の弾圧にいたたまれず、蓮如は文明7年(1475)8月ひそかに海路吉崎を脱出、時に蓮如61才、わずか4年2ヶ月の滞在であったが、吉崎は真宗教団再興の地として歴史的意義が大きいと言える。
6 訪問日 2016.10.08
馬場大路、往時の参道 吉崎御坊
蓮如上人御手植えの御花松 蓮如上人の像 吉崎御坊本堂跡 御坊跡地からの眺望
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白山平泉寺が近くなると旧境内境の石碑と駐車場があった。平泉寺に向って車を走らせる。羽黒山に似た鬱蒼とした杉林を進む。やがて平泉寺駐車場に着いた。介護施設の運転手の方が話し掛けて来た。連休の初日であるが、小雨模様で、人出は今一である。散策バンフを貰う。白山平泉寺は世界遺産を目指しているようだ。とてつもなく広い境内、拝殿迄行ってここで引き返した。
1 所在地 福井県勝山市平泉寺56-63
2 種 別 寺院
3 遺 構 石垣・土塁・宗教都市
4 現 状 白山神社境内
5 掲示物 案内板・説明坂・標柱・石碑外
6 ナビの設定 勝山市平泉寺の白山神社に設定(地図に白山神社が載っている。
7 駐車場所 観光客用駐車場
8 慨 要 国指定史跡
中世では比叡山延暦寺の勢力下に入り、最盛期には48社・36堂・6千坊・僧兵8,000人の宗教都市であった。戦国期には浅倉氏と肩を並べる一大勢力であったが、天正2年(1574)一向一揆の焼き討ちに逢い、衰退の一途を辿った。
9 訪問日 2016.10.08
御手洗い池・平泉の由来の池 二の鳥居
三三間堂拝殿 平泉開基 泰澄大師墓 |
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13.05に勝山市役所に着いた。しかし市役所前は車輌が満杯、駐車場の案内板は無い。右折し着いた場所が隣の教育会館前、運よく1台分空いていた。教育会館の前は広い緑地である。この辺一帯が勝山城の跡だ。
1 所在地 福井県勝山市元町1(勝山市役所)
2 別 名 袋田城
3 築城時期 天正8年(1580)
4 築城者 柴田勝安 5 遺 構 無
6 掲示物 石碑・説明板
7 ナビの設定 勝山市元町1-1-1 勝山市役所
8 駐車場所 市役所駐車場
9 慨 要(現地説明坂転記)
天正8年(1580)袋田と呼ばれていたこの地に始めて城を築いたのは、柴田勝家の一族、勝安である。勝安は、九頭龍川の河岸段丘である七里壁や、北側に広がる沼地などを利用して城を築き、勝山支配の拠点とした。勝安の築いた城は、元和元年(1615)の徳川幕府による一国一城令により壊されたようだ。以後、その跡地には代々の領主の館が建てられる程度でてあった。勝山に於いて城郭と城下町が整備されてくるのは、元禄4年(1691)小笠原貞信が入封してからである。貞信は22,777石をもって美濃国高須から勝山に入封した。当時勝山は城跡しかなかったので、貞信は幕府に対して築城の許可を願い出たが
実際に許可されたは宝永6年(1709)7月12日二代信辰の代になってからである。信辰は、きず、本丸の普請から取りかかった、古い堀を返したり、土居を築いたりしてその形を整えた。しかし財政が続かなかったようで、その後の工事は中断した。工事が再開されたのは、およそ60年後の明和7年(1770)
五代信房の時代である。信房は二の丸を築き、藩主の御殿をそこへ移転した。7代長貴は、幕府の若年寄と言う要職に就いたが藩の財政は出費がかさみ厳しかった。その上文政5年(1822)には本丸から出火し、門・高塀・土蔵を残して焼失した。この時、町や村からの見舞い金や手伝いによって、瓦や桧皮葺きの御殿が再建された。また、長貴の代には、二の丸北部の未完成部分が仕上げられ、築城からおよそ120年が経過したようやく当初の計画に近い城郭が出来上がった。しかし蔀曲輪し馬出しは作られず天守も築かれることはなかった。
8代長守の時に明治維新を迎えたが、城郭の建物は売りに出され、天守台と本丸の堀の一部を残して埋め立てられた。ここには長く小山状の天守台があり、市民からお天守と呼ばれて親しまれてきたか、昭和42年の市民会館建設に際し削平された。現在その跡地には長守の筆による勝山城跡の碑が残るのみである。
絵図は勝山城再建絵図を本に作成したものである。 平成19年3月 勝山市
10 訪問日 2010.10.08
僅かに城跡の雰囲気が残る石碑類 小笠原長守筆 勝山城跡の碑
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ここは民家前の石垣で囲った土塁のような跡に説明坂があるのみですぐ次へ向った。
1 所在地 福井県吉田郡永平寺町松岡葵1
2 別 名 御館
3 築城時期 承応2年(1653)
4 築城者 松平昌勝
5 種 別 館
6 遺 構 無
7 掲示物 説明坂
8 現 状 民家
9 ナビの設定 永平寺町松岡葵2-1-9(葵1丁目会館) 国道416号を春日交差点を北に折れ、県道110号へ入り、線路を渡る。この先道が二又に分かれる手前の道を西へ折れ、葵1丁目会館の方へ進むと右手の民家前に説明坂が立っている。
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