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暑い時期は平場に限ると思い、山形市のHPより最上氏関連市史跡を拾い出し、2017年8月19日に巡って来た。
1 山形城 マップに基ずき全部廻る予定であったが、資料が雨で濡れ濡れはじめ、文字も滲んで来た為、本丸周囲と一部二の丸土塁を巡り、外は省略した。発掘調査はこれからも続けられるようだ。
所在地 山形市霞城町1-7(霞城公園)
二の丸東大手門 復元本丸堀
復元本丸一文字門 一文字門と本丸堀
2 専称寺 寺院周囲を一周し、保育園側から駐車場へ入る。墓詣りの母子以外境内に人気はなかった。目的の駒姫の墓は案内板が要所にあり、探す必要はなかった。ここではやぶ蚊に三カ所刺された。 所在地 山形市緑町3-7-67
概要 悲劇的な死を遂げた最上義光の娘、駒姫の菩提寺である。
境内の最上義光駒つなぎの桜 駒姫の墓
3 光明寺 寺の駐車場に着くと、造園業者の車が停まっており、中に若い作業員が昼休み中であった。 最上氏の始祖斯波兼頼の墓は覆い屋の中にあった。
所在地 山形市七日町5-2-12
概要 最上氏の始祖斯波兼頼が建立した寺院で、本堂には等身大の兼頼の木像が安置されていると言う。
最上家紋構えの土塀 斯波兼頼の墓
4 三の丸土塁跡 概要(説明板転記) 国指定史跡
山形城は、山形へ入部した斯波兼頼が延文2年(1357)に築城したと伝えられている。これを最も大きい規模にしたのが最上義光で57万石と言われる領地を獲得した慶長6年(1601)以降の事と考えられる。城は本丸・二の丸・三の丸を有する平城で、その規模は東西1480m、南北1881mに及んだと言われている。まさに全国有数の大きさである。ここ歌懸稲荷境内の西側に残る土塁は、三の丸の東南の十日町口に隣接する部分にあたる。昔を偲ばせる樹木が繁茂しており、東側に堀跡が窪みとなって残っている。現在は二の丸の区域内(霞城公園)と共に国の史跡に指定されている。 平成13年3月 山形県教育委員会
5 宝光院
所在地 山形市八日町2-1-57
概要 宝光院本堂について(現地説明板一部転記)
山形市指定有形文化財
旧寺地は山形市中野にあったが、最上義光の帰依により現地に移された.現在この本堂は最上氏退転のあと、山形城内の建物を移建したと言われるが、たしかな事は分からない。直近年解体修理した時に貞享5年(1688)の墨書銘が発見され、少なくともこれ以前の建築と考えられる。
追記 最上氏の改易は元和8年(1622)を確認した、
6 光禅寺 寺院の参道から車を乗り入れる。左手に駐車場があった。太鼓橋を渡り本堂左手の墓地へ行くと右手に庭園の説明板があり、入口から庭園を撮影した。その後最上氏三代の墓地へ向かう。最上義光の墓がひと際大きく、その右手に殉死者の墓がならび、更にその右手後側に泰親・義信の墓が並んで立っていた。
所在地 山形市鉄砲町2-5-7
概要 最上氏三代の墓
光禅寺参道入口 最上義光の墓
殉死家臣の墓 右 二代泰親公・ 左 三代義信公墓
追記 殉死家臣墓(戦国大名家臣団事典から)
・ 右から 寒河江十兵衛尉 物頭261石 寒河江一族は義光により討伐されたが、特に許され、その恩義に 報いたと思われる。
・ 寒河江肥前守 寒河江から南楯に知行替。2万7千石を有したとも言われる。殉死理由十兵衛におなじ、
・ 山家河内守 3,000石を有したと言われる。山家城主の子孫。義光から特別な恩顧恩顧を受けたと思 われるが、詳細不明
・ 長岡但馬守 成沢で5,000石、義光が特に愛顧をうけていたと尾根われるが詳細不明。
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山形県の城館
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米沢市のHPで舘山城は平成28年3月1日、国指定史跡になったと出ていた。平成22年より整備を進めた結果とも出ていた。平成22年とは最初に舘山城へ登城した年である。地元の人から登口を聞いたら北側にあると教えてもらった。工事中らしい赤いテープが所々に巻き付けてあり直登のような感じであった。今にして思えばその場所は北館側で地元の人が働いていた場所は東館跡だったのだ。今回訪問してみると館跡・井戸跡・大手道・枡形虎口等と詳しく説明されていた。杖やトイレも用意されており、個人所有の土地に付、駐車大歓迎の看板迄立っていた。なお城跡には各所に説明板有。
1 所在地 米沢市舘山
2 ナビの設定 舘山発電所入口に設定する。国道121号沿いに舘山城案内板有。
3 駐車場所 専用駐車場有。
4 訪問日 2017年8月1日
この橋を渡り左折する。右折は北館側 東 館
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1 所在地 鶴岡市羽黒町手向字薬師沢
2 別 名 薬師館沢館
3 築城時期 不明
4 築城者 不明
5 遺 講 郭・空堀・土塁
6 掲示物 史跡碑・案内板
7 ナビの設定 旺文社発行 県別マップルに載っており、ナビを画面で併せた。
8 駐車場所 公園として整備され、専用駐車場・トイレ有
9 概要 標高128m・山頂を平坦にして約200m四方の斜面に三段の曲輪がある。主郭は東西80m・南北50mの瓢箪形で東部を残し、巾4m、深さ1mの空堀を巡らしている。堀の外側に土塁がある。古くから蝦夷館と呼ばれて来たが、縄文時代の石器が出土する事もあり、チャシとする見解もある。又豪族に使用されたようだ。
10 訪問日 2013年6月22日
史跡 蝦夷館の碑 駐車場に掲示の蝦夷館案内図
駐車場より二の郭へ向う 二の郭より主郭へ
主郭へは北側から廻り込むように登ると東端に稲荷神社がありました。さらに登ると東屋があり、その前に館跡についての説明板が立てられていました。 主郭・主郭を横堀と土塁が北・西・南と囲み、南西隅の横堀には模擬橋が架けられ、蝦夷館跡撮影のポイントとなっていました。
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1 所在地 鶴岡市田川字高田9外 (田川小学校)
2 遺構 無
3 掲示物 説明板
4 ナビの設定 所在地とする。
5 駐車場所 学校前の路上
6 訪問日 2013年6月22日
概 要(山形県中世城館跡より)
大正8年館跡に田川小学校が建てられた時、残存していた土塁は消滅、(イ)の「縁側の橋」のあたりが大手口で、お堀が流れていたと言う。南東の馬場から鎧が出土している。館主の田川太郎行文は田川郡司で、平泉藤原氏の郎従であったが、文治5年(源頼朝軍と戦って敗死した。尚字限図によって居館の区域が推定出来る。近くに烽火台であっただろう山城、田川城がある。
鶴岡市関川より国道345号を北上、湯田川温泉方面へ向うと30分弱で田川に着く、その田川地区に所在する田川小学校が館の跡地と言う。小学校の道路脇に豪族、田川太郎についての説明板が掲示されているが、文字が薄れて読めなかった。小学校は平成26年3月で140年の歴史の幕を下ろすと、大断幕が掲げられていた。
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1 所在地 飯豊町黒沢南館 3 築城者 (大立目氏) 4 遺 構 土塁・堀 5 掲示物 無 6 ナビの設定 南館に設定しました。 7 駐車場所 路上駐車 8 概要 伊達氏の家臣大立目氏の居館跡と伝えられ、西側に約35mに渡り堀跡と、土塁が残っている。虎口Fは、テラス状の丘になっており、館主の母屋跡と考えられる。 9 訪問写真(遠景のみで遺構の確認はしていません) |



