日本の城探訪日誌

関東・東北・北陸地方を中心としています。

茨城県の城館

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鹿嶋城

 昼近くに鹿島城址公園に着いた。満開のツツジが出迎てくれた。多くの市民で賑わっていた。駐車場から主郭の遊歩道となっている土塁上をのんびり一周、西側の東屋で尺八を楽しんでいる人もいた。曲は北島三郎の「与作」である。北島三郎の歌を聞くより味わいがあった。城跡の次は鹿島神宮へ参拝に行く、神宮の奥宮前の茶店に以前NHKで放映した時代劇「塚原卜伝」はこの奥宮前での撮影であると看板が出ていた。奥宮の参道では5月3日開催の流鏑馬の準備中であった。

1 所在地  鹿島市城山1丁目(城山公園)
2 別  名  吉岡城
3 築城時期 養和元年(1181)
4 築城者   鹿嶋政幹
5 種  別  山城
6 遺  構  空堀
7 掲示物  説明板・城跡碑
8 ナビの設定  城山1丁目 城山公園とする。
9 駐車場所  公園駐車場・トイレ有
10 概 要   常陸大掾氏の一族鹿嶋政幹が鎌倉初期に築城したと言う。鹿嶋氏は源平合戦に従軍し、頼朝から鹿嶋神社の総追捕使の職に任命されたという。戦国時代になると一族、家臣が分立し、大永3年(1523)当主の義幹が下総に追放された。天正19年(1591)当主晴房は佐竹義宣に招かれ、太田城で騙し討ちにあい、氏は滅亡した。剣豪として有名な塚原卜伝もこの鹿嶋氏の一族である。佐竹勢に鹿嶋城が攻められ落城した時、幸い晴房の一子、伊勢寿丸が助かり、後徳川家康の命により、国分光胤を継ぎ、鹿嶋神宮の総大行事となり、この職はその子孫が明治迄続いたと言う(日本城郭大系・外より)

11 訪問日 2015年4月27日
     鹿嶋城につていの説明板                 公園入口の空堀(主郭虎口下)
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      土塁跡の遊歩道を歩く                    主郭中央を走る空堀跡?
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    主郭より水堀跡方向を撮る                   主郭跡めぐりを終える
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        以前の鹿嶋神宮の参拝は2000年5月5日で、15年振りの訪問であった。       
 鹿嶋神宮楼門                         鹿嶋神宮本殿
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       鹿嶋神宮奥宮                            奥宮の偏額
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麻生城

 狭い道を登り羽黒山公園に着いた。駐車場も用意されており、城郭風のトイレも完備されていた。地元の人の車が1台停まっていた。駐車場前の細長い郭と、主郭の広い郭を撮影する。思ったより遺構が良く残っており、巡った場所は城跡の極一部に過ぎない。

1 所在地  行方市麻生町麻生字要害(羽黒山公園)
2 別 名   羽黒城
3 築城時期 天慶年間(938-47)
4 築城者   麻生家幹
5 遺 構   空堀・土塁・主郭跡
6 種 別   平山城 比高30m
7 ナビの設定  麻生小学校北西羽黒山公園とする。
8 駐車場所 公園駐車場・トイレ完備
9 掲示物   公園案内板
10 概 要   築城した麻生氏は常陸大掾氏の流れを汲む行方平四郎忠幹が始祖で、後行方氏の子が各々4家に分かれた。しかし時代の流れと共にこの4家も争うようになり、麻生17代三郎常安は同族島崎氏17代義幹と天正12年(1584)戦い、敗れた。麻生氏を滅ぼした島崎氏はその後7年間麻生城を支配したが、天正19年(1591)島崎義幹等周辺豪族は佐竹氏に誘殺された。その後佐竹氏の家臣下川辺氏が佐竹氏が秋田に転封される慶長7年(1602)迄居城した。同慶長9年新庄直頼が摂津高槻から3万石で入封、陣屋を築いた(日本城郭大系より)

11 訪問日  2015年4月27日
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     駐車場前の細長い郭へ登る                  郭を分断する空堀
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              土 塁                          主郭へ登る
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       主郭内の巨木                        主郭下の腰郭を撮る
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麻生陣屋

 麻生所依学校が陣屋跡である。道路上より説明板を見つけたが、学校は柵で閉鎖されていた。とうしたものかと思案していると、子供連れのPTAの人が帰るのに柵を開けた。そこで了解をえて、、陣屋の説明板を間近で撮影できた。隣の家老邸には駐車場が用意されていた。しかしこの日は閉館日で主屋は垣根越しの撮影となった。

1 所在地  行方市麻生
2 ナビの設定  麻生1147-1(麻生小学校)
3 駐車場所   記念館として公開されている麻生藩家老邸の駐車場を借用する。
4 麻生藩    慶長9年(1604)新庄直頼が三万石で、霞ケ浦東岸に突き出た岬の先端に陣屋を築いた。延宝4年(1676)当主の直矩に嗣子なく、徐封された。しかし直矩の父、直好の養子直時に1万石を与えられ、本家を相続、再興し、引き続き麻生村の陣屋を使用する事になった(江戸300藩 城と陣屋総覧より)
家数人口 嘉永4年む(1851)1474軒 6967人      明治2年(1869)1723軒 9092人

5 訪問日  2015年4月27日
      麻生陣屋跡説明板                      陣屋跡の麻生小学校
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  記念館として公開されている麻生藩家老邸              家老邸主屋
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木原城

 9時45分に木原城址公園に着いた。気温も高くなってきた。二の曲輪跡に駐車した。土塁に囲まれた内側は農地となっていて、久しぶりに大麦畑を見た。二の曲輪から一の曲輪に入る。そこにも駐車場とトイレが用意されていた。一の曲輪は綺麗な芝生で、八重桜が満開であった。芝生内でドローンを飛ばしている人がいた。子供連れの人も居たが、利用者はその人達だけだった。一の曲輪は周囲を遊歩道が巡っており、一周して来た。鯉登りも泳いでいた。その後木原城出丸跡の永厳寺に行く、二重堀の近く迄は良く手入れされているが、そこからは藪で二重堀は未確認に終わった。寺院前に境内の手入れをしていた人が休んでいた。

1 所在地  稲敷郡美浦村木原(木原城城山公園)
2 築城時期 応永6年(1399)又は永禄5年(1562)
3 築城者  近藤利貞・又は土岐治英
4 種 別   平山城
5 遺 構   土塁・空堀
6 掲示物   案内板・説明板・標柱
7 ナビの設定  木原1567の木原小学校の西側城山公園とする。
8 駐車場所  公園駐車場 二ケ所有・トイレ完備
9 二重堀   木原1941に所在する永厳寺本堂東側の小山  車は寺院駐車場を借用する。
10 概 要   木原城の創設者は応永6年の近藤氏の説と、永禄5年江戸崎城主土岐氏が築き、家臣の近藤薩摩守が居城したという説がある。木原城は三度落城している。一度目は天正2年(1574)小田氏治の家臣、江戸崎監物が佐竹氏に寝返り、小田氏を滅ぼし落城。二度目は同11年佐竹淡路守と葦名盛重らに滅ぼされた。三度目は同18年豊臣秀吉の小田原攻めの余波を受け落城した。これは江戸崎・龍ヶ崎の城主と共に木原城も北条方に味方した為である。(日本城郭大系より)

11 訪問日  2015年4月27日
 木原城城山公園入口・入ると二の曲輪となる         二の曲輪・中央奥が大麦畑
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二の曲輪から一の曲輪への虎口 空堀・土塁有         一の曲輪の土塁と遊歩道
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             一の曲輪                      この上が稲荷曲輪
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    一の曲輪・模擬矢倉と鯉登り                         二重堀のある出丸跡の永厳寺本堂
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牛久城

 大手からの道もあったが、ナビの設定地前に城への案内標識があり、道路余白に駐車し登城した。最初民家の間の道を登る。登りきったあたりの右手に空堀があり、そのまま進むと左手に腰郭のような平坦地がある。更に進むと右手に広い郭があり、次に良く遺構の残る空堀・土橋と続き、開けて畑となる。その角地に説明板が建っていた。そこより元来た道を戻る。

1 所在地  牛久市城中町
2 別 名   岡見城
3 築城時期 天文年間(1532)
4 築城者  岡見氏
5 種 別   平城
6 遺 構   空堀・土塁・土橋・郭
7 掲示物  説明板
8 ナビの設定  牛久市城中町488の北側に城跡あり。
9 駐車場所  案内板の付近に駐車スペースがあった。
10 概 要
 牛久城は牛久沼に続く丘にあったが、昔は周囲がすべて沼で天然の要害であった。城は天文年間岡見氏が築いた。岡見氏は始め筑波小田氏に属していたが、小田氏が天正元年(1573)佐竹氏に滅ぼされると、独自に勢力を伸ばしていったが、天正15年下妻城多賀谷氏に攻め滅ぼされた。その後牛久城は由良國繁が入ったが、由良氏は北条氏政の家臣であり、天正18年の小田原役後、豊臣秀吉により、上野金山の所領を没収された。しかし国繁の母の行動が認められ、母に牛久で5千石を領する事が許され、慶長3年(1598)には改めて國繁に牛久5,435石が与えられた。その後貞繁の時、嗣子なく貞繁が元和7年(1621)没すると由良家は断絶した。一方織田信雄の家臣で信雄没落の後、徳川家康に仕えた山口重政が慶長6年牛久で5千石加増され、1万石で大名に列した。(日本城郭大系より)

11 訪問日  2015年4月27日
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    民家の間の道より登る。搦手道か                主郭・二の郭間の空堀
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            二の郭                      二の郭と三の郭間の空堀と土橋
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      同 二の郭・三の郭間の空堀         三の郭 こちらが大手であろう。駐車スペースも有イメージ 6
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