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南部町へ訪問の帰路身延山久遠寺へ参拝する。あいにく小雨であった。久遠寺の紅葉は風景写真に載せた。
訪問日 2014年11月25日
山 門 参道と奥は超急な階段
本 堂 楼神閣祖師堂
左から新客殿 右納骨堂 納骨堂
納骨堂
五重塔 偏 額
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山梨県の城館
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訪問日 2014年11月25日
浄光寺
所在地 南部町南部8843
裏山中腹にあった南部一族の墓石が台風で埋没した為、昭和57年南部氏供養塔を建立にあたり、一部を境内に移転した。
諏訪神社
所在地 南部町南部8909
諏訪神社は上下二社あり、新羅三郎が勧請したと伝えられている。
南部氏館
甲斐源氏加賀美遠光の三男光行は平家討伐に功あり、この地を与えられ、地名を取って南部三郎光行と称した。 光行はここで館を構えたが、文治5年第三子実長を波木井に残し、奥州へ移った。館がいつまで使われたかははっきりしないが、井戸だけが昔を忍ばせる。
妙浄寺
所在地 南部町南部8122
日蓮が身延山に入山する前、この寺に一泊したと言う。南部氏がこの地を領有していた頃の菩提寺
新羅神社・南部城山遠景
所在地 南部町南部8114
新羅神社は南部光行は、甲斐源氏の祖、新羅三郎義光公の霊廟として建立した。
参道に建つ新羅神社の説明板 新羅神社・後は南部城山
新羅神社と記載されている張り紙 南部城山遠景
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国道52号冨栄橋交差点から真篠城へ向かう。坂道を登り、竹林を過ぎ、住宅地に出た。そのまま道なりに進んだら直角に曲がる民家前にようやく真篠城への道標があった。それに従って行ったら左手に城跡説明板のある場所に出た。道路が狭く対向車に合わぬように祈りながら進む。正面駐車場への道標を左折、直進し右折すると専用駐車場が用意されていた。城跡へは大手入口の標識のある場所から登る。最近誰も登らないらしく、最初から道は荒れていた。やがて道を塞ぐ間伐材を越え、腰郭に登り着く、その上が主郭であった。主郭の周囲は土塁で囲まれ、良く遺構が残っていた。土橋・空堀と良く残っているらしいが、主郭で満足し、下山した。失敗したのはこの城の駐車場で長年用いていた熊除けの鈴を落とした事を次の訪問地、新羅神社で気がついた。
1 所在地 南巨摩郡南部町福士原真篠
2 種 別 山城 標高260m・比高50m
3 ナビの設定と行き方 国道52号沿いり富栄橋交差点を身延町側からの場合、右折し直ぐ又右折の道路があり、真篠城への案内板がある。その後は真篠集落への案内板があるので、従う。狭い道で地元の対向車を考えると不安も感じるが最後に駐車場に着く。
4 駐車場所 専用駐車場有
5 概 要(現地説明板転記) 県指定史跡
天文から永禄年代(1432〜1569)に武田信玄の命によって構築それ、その家臣原大隅守が警固したと言われ、城山全体が砦としての遺構を備えており、甲斐駿府の国境に近く、その守備と周辺の砦との連絡に必要な拠点性に加えて、山地の要害を巧に取り入れている。 南部町教育委員会
6 訪問日 2014年11月25日
真篠城の説明板 大手入口の表示板 ここから登る
道を塞ぐ間伐材や倒木 虎 口
主郭を巡る土塁 主郭 土塁等遺構は良く残っていた
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2014年11月24日最後の訪問地である。国道52号沿いに鏡円坊とう言う寺院があるが、館跡へはここからと墓地からの二ケ所の登口があると「甲斐の山城と館」に出ていた。鏡円坊の参道前に館跡の説明板があり、その脇の駐車場を借用、墓地の道から館跡へ登る事にした。道はコンクリート板に出来ているが、訪れる人も無いので手入れをしないのか、落葉が厚く積もっていた。又館跡も手入れが良いとは言えない状態である。中央に祠が祀られていた。
1 所在地 巨摩郡身延町梅平
2 別 名 波木井氏館
3 築城時期 鎌倉時代
4 築城者 波木井(南部)氏
5 遺 構 郭・空堀・土塁
6 掲示物 説明板
7 ナビの設定 身延町梅平2780(鏡円坊)
8 駐車場所 国道52号沿い、鏡円坊の駐車場を借用する。
9 概 要(現地説明板転記) 町指定史跡
南部氏は甲斐源氏の一族加賀美遠光の子、南部三郎光行に始まる。甲斐源氏は源義家の弟、新羅三郎源義光から出た。義光−義清−遠光を経て光行−実長と続く。光行は甲斐南部を与えられここを拠点として南部氏と称し発展した。光行父子は文治5年(1189)頼朝の奥羽藤原氏征討に従って勲功を立て、恩賞として奥羽糠部5郡を与えられた。建久2年(1191)光行は、実長一人を甲斐に残し、一族を引き連れて奥州へ下向した。奥州南部氏の起源である。一人甲斐に残った実長は波木井や飯野南部の地を領有し、ここ梅平に館を構えた。実長は日蓮上人に深く帰依し、文永11年(1274)所領を寄進して聖人を身延山に招き、外護に努めた。身延山遠久寺の始まりである。南部氏は、八世の子孫正光が八戸へ移る迄、およそ200年間この地に住んだ。
身延町教育委員会
ここで?と思った事項があった。1191年実長が一人甲斐に残り、1274年日蓮に領地の寄進とあるが、その間83年間である。南部光行が奥州へ下向時、実長は1歳の計算になる。
尚南部氏館跡遺跡確認調査報告書がネットに掲載されています。
10 訪問日 2014年11月24日
鏡円坊参道前の南部館跡説明板 落葉が厚く積もっていた館跡への道
館跡中央の祠 館跡周囲の土塁
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カーナビは所在地の本国寺に設定した。現地に着いたら川沿いの道で不安になって近くの郵便局の駐車場で改めて設定し直した。再び川沿いの道に入った。ところがナビの案内する方向に道が無い。そこでUタウン(ここで右折すれば問題は無かったのであるが)する。ナビが左折を案内した。ところがそこは道ではなく、墓地へ入る階段だった。しかたがなく再び郵便局の駐車場へ戻り、そこから徒歩で本国寺へ向かった。寺院前に小学校跡地の広い空地があった。寺院前に銀杏の巨木も見えた。山門脇の堀跡は雑草が繁茂、山門手前には下山城跡の石碑が建っていた。
1 所在地 南巨摩郡身延町下山2271(本国寺)
2 別 名 穴山氏館
3 遺 構 空堀跡
4 掲示物 城址碑
5 ナビの設定 所在地とする。
6 駐車場所 寺院前旧小学校跡空地
7 概 要 町指定史跡
下山氏は秋山光朝の子孫が下山の領主として来住したことに始まる。館主光基の時、日蓮に帰依し、その屋敷を寺にしている。穴山氏はこの下山氏の屋敷のあった同じ場所で、規模を大きくして館を営んだ。穴山氏の下山の居住が史料的にはっきりしているのは、信君(梅雪)の父伊豆守信友になってからである。
8 訪問日 2014年11月24日
本国寺山門 雑草が繁茂しているが堀跡
下山城跡の石碑 ここも城跡であった本国寺前の小学校跡地
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