ホテル、レストランコンサルタント 堀籠克明の日記

ホテル・レストラン等を始めサービス産業のコンサルタントとして現在サービスの向上、企業再生、地域活性化を行っています。

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カタルーニャのカバ

カタルーニャ地方のカヴァ

スペイン、カタルーニャ地方
スペインの北東部コスタ・ブラーバの海岸線、フランス国境の近くに人口6,000人の小さな町レスカラ(L’Escala)がある。30年ぶりにこの町を訪れた。30年もたつと町は大きく変わっているのではないかと思ったのだが、海辺の風景も町並みも、商店さえ昔のままであった。目に見えた変化といえば町の中には不動産屋が多くなり別荘風の建物が増えたことぐらいだろうか。現在スペインは不動産バブルの最中にあり、イギリス人の投資により、この町のホテルはコンドミニアムやアパートに変わっている。町の周辺には通称イギリス村と呼ばれる別荘地が出来、古い教会や、建物をディスコに改装する等、中々投資が盛んの様である。30年前私はスペイン人の友人ジョアンの両親が経営するこの町の2つのホテルの総支配人をしていた。当時も周辺にはディスコやバーがあったが、その資本の多くはベルギーからもたらされていた。
カタルーニャ地方は、バルセロナ、ジロナ、リエリダ、タラゴナの4県からなる地域でバルセロナを州都とする、特異な言語と文化そして歴史を持つ地域である。州の面積は関東とほぼ同じだが、スペインのGNPの20%を産出する国内有数の商工業地域でもある。カタルーニャ出身の人の中にはこの地域をスペインのスイスと言う人もいる。歴史を辿ると、紀元前12世紀まで遡るがカタルーニャの人々の歴史観から見るならば紀元前6世紀のギリシャ人がカタルーニャ北部に殖民都市を築いたのがその始まりと言える。その後カルタゴの支配、紀元前1世紀からのローマの支配を受けコロニア・ファヴェンテア・フリア・アウグスタ・パテルナ・バルシノとまるで呪文の様に名付けられた町が、現在のバルセロナとなる。伝説ではバルセロナはヘラクレスによって築かれたとの事である。

8世紀にはイスラム教徒に支配された後フランク王国によって奪還される。文献にカタルーニャの名が出てくるのは12世紀になってからである。13世紀にはカタルーニャの独立が正式に認められカタルーニャは繁栄して行くが14世紀前半の農作物の不作、ペストの流行などにより衰退を始め以後カスティリア王朝の支配の時代が始まる。15世紀カスティリア女王イザベル1世と謁見したのが、かのコロンブスである。コロンブスはジェノバ人と言われているが、カタルーニャの人々はカタルーニャ人だと信じている。18世紀にはオーストリアのハプスブルグ家とフランスのブルボン王朝のスペイン継承戦争が起こり、ハプスブルグ側についたカタルーニャは勝利したブルボン朝スペイン王国の制圧を受ける事となり、他言語であるカスティリア語の使用を強制される事となった。18世紀末新大陸との交易権がカタルーニャにも認められ、繊維産業が立ち直りその後の産業革命に成功しこの地域は繁栄する。こうした背景が後のインターナショナル運動、市民戦争へと繋がって行くのである。20世紀初頭スペイン内戦で共和国を支持しフランコの独裁政権に抵抗したカタルーニャは内戦終結後、厳しい弾圧を受け1978年まで公的な場でのカタルーニャ語の使用、出版物を禁止されたのである。そんな中、外国人である自分がカタラン語を話していたのだと思うと今更だが恐くなった。

カタルーニャ語とは
 カタラン語(カタルーニャ語)は、スペイン語、イタリア語、フランス語と同じロマンス語に属するが、スペイン語に比べると母音が8つ、代名詞がある等イタリア語、フランス語等との共通性が強く見られる。方言と言うよりはスペイン語(カステリアーノ)とは別な歴史、文化の背景を持った一言語とみるのが正しいと思える。彼らは勿論、スペイン語も話す。フランス語、英語を操る人も多い。私は31年前スイスから日本に帰国する事なく、スペイン語を学ぶためにスペインへ渡った。当初はリエリダに住む友人エドワルドの家に寄宿し英語とカステリアーノを話す女性から1ヶ月間スペイン語を学んでいた。その後地域の学生寮に入り、大学生や高校生と過ごす様になりカステリアーノは姿を消し、私の口からはカタラン語が飛び出す様になった。周囲の人々は笑うやら、歓ぶやらエドワルドの知人、友人に誘われ食事に行く事が多くなりカタラン語での会話に磨きがかかる事となった。カタラン語が私には非常にフランス語に似通った言語に感じられた事が救いとなっていたのかも知れない。ちなみに、カステリアーノで言うグラシアス(ありがとう)はカタルーニャではメルセスとなる。今回のテーマ、スペインのシャンパンに出会ったのもこの地が始めてであった。学生達とディスコに行けばシャンペン、バルで一杯やった後、食事に行けばシャンペン、パーティには勿論シャンペンは欠かせない物である。

パリから寝台列車で
今回の旅はパリから始った、パリから寝台車で7時間ジロナ県のフィゲイラスに着く。ヨーロッパを列車でのんびりと国境を越えながらの旅もよいものである、私と息子のコンパートメント(車室)にはフランス人の学生とアメリカ人の学生が一緒であった。車掌が回って来てチケットとパスポートを回収して行き、二人の学生は初めての寝台列車の旅の様で「持って行っちゃった。いつ返してくれるのか。」と心配していた。両方とも下車駅の近くになると、車掌がドアをノックし起こしに来た時に返却してくれる。
フィゲイラスはカタルーニャ出身の画家サルバドール・ダリの生地で、この町には建物の屋根に卵の乗ったダリ美術館がある。建物も独創的だが館内の作品もかなりユニークである。是非立寄られる事をお勧めする。この地域は自由な文化、芸術家を多く排出しており、サグラダ・ファミリアの設計者アントニオ・ガウディもカタルーニャの人である。
今回の旅、30年ぶりに突然訪れ友人たちをおどろかせようと思いわざわざ旅行会社に予約を依頼したのだが「ホテルから返事が来ないので困っています。」との回答。そこで自分でネットから予約を入れたところすぐに返事が返ってきた。未だにこの旅行会社が本当に予約を入れたのか疑問が残るところである。そんな訳で直ぐに私の身元が解ってしまい、このホテルの現オーナーであるジョアンがフィゲイラスまで車で迎えに来ることになった。車の中でこの事を話すと、「30年目にしてこの町に来た2人目の日本人はお前だ。」との事、この間私以外の日本人はこの町に顔を出した事が無かったのである。日本の旅行ガイド・ブックにも載っていない町だからしかたの無いことかもしれない。しかし夏にはフランス、イギリス、ドイツ、北欧等からの観光客で人口が5万人に増え、夜8時からオープンするテラス・レストランにはお客様が2時間も前から座って待っている状況となる。昔はフランス人観光客がその中心であったが、今フランス人は経済状況の悪化から少なくイギリス人にその位置を取って変わられた様である。
ホテルに着き、ベランダから地中海を見たのは午前8時、下を見ると、懐かしい光景が目に入り思わず昔を思い出してしまった。30年前はこの海に何度となく軍艦が見えた。私とジョアンは年齢が同じで誕生日も一日違い、その誕生日の昼からシャンパン漬けの一日が始まった。その日は二人とも仕事から解放され、宿泊客にシャンパンを注いで回りかつ飲み、最後には二人ともスーツ姿のままプールに落ち、翌朝は、ジョアンのマードレ(母親)に叱責される事となった。

つづく

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