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Salone News 2006 vol.1
レクサス×トクジン
プレス・プレビューがあった。
トヨタの、知った複数の顔に出迎えられて会場に入ると、がらんとした巨大な空間に鳥の巣のようなぼそっとした塊が複数転がっていて、その奥に異空間への入り口のような空間が見えた。どこにもレクサスは見えない。あるのは吉岡徳仁の空間だけだった。
繊維の絡み合った塊を窯の中に入れて加熱してできあがる奇想天外な素材と形態と製法による椅子が全室に展示されている。その奥に、無数の繊維を垂直に垂らした空間の中にレクサスを隠した左の一角ともう一方、右側には同じような繊維の壁の裏にその繊維をスクリーンにした映像を漂わせた一角があって、その二つの繊維の空間がくさび形になって人々を受け入れる。
存在と非存在の間のようである。見せることと見せないことの中間。ここではレクサスは怪鳥の卵のように徳仁の魔術に抱かれていた。吉岡徳人は空間を表現させたら抜群である。昨年のよく分からないままのレクサスとアーティストの共作はここに来てやっと徳仁の芸術的空間表現としてその成果を見せている。
それにしても、量産品をディスプレーするとは一体なんなのだろう?ここではレクサスはレクサスでなくてもいい。車のメタフィジカルなものを引き出す試みなのだろうが走るエンジン音のエロティシズムもなければあの疾走する車の快感もない。車の神秘性を表現しようとしているとしてもレクサスはむしろアートという魔法の衣服をまとっているに過ぎない。この空間もレクサスの資質に含まれていると言いたのだろうけれど、車を愛する者から見ればこれは全く別物なのだ。
車って何だろうという問いが見えてくる訳ではないし、車の思想を主張しているとも思えない。アートの衣をまとって居心地が悪そうなレクサスだけが見える。
すごい徳仁の魔術に感動しながら、同時に、トクジンのアートの部品でしかないレクサスにちょっぴり同情を感じたものである。のっけからミラノサローネとは何なのだという設問を与えられることになった。(4月4日)
↑転載文
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