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カトリック的。
信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

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十字架の死に至るまで

今日は十字架称賛の祝日だった。(おっと、書くのが遅くて昨日になってしまった。)

キリストは神でありながら人となり、全人類の罪をあがなうために十字架の苦しみをお受けになった。世人の目には悲劇的敗北とも見えた十字架上の死は、実は神の愛が決定的勝利を収めた瞬間だったのだ。そういえば、私の家に貼ってあるカレンダー(英語)には「十字架の勝利」と書いてあった。

プロテスタントの十字架はただの二本の棒らしいが、カトリック教会の十字架には磔刑のイエズス(イエス)像がついている。これはもちろん偶像崇拝なんかではなく、神が人類に救いを与えた瞬間をより忠実に表現しているのだ。
そしてその磔刑像が常に教会に掲げられているのは、カトリック教会の中にキリストによる救いが常にリアルタイムのものとして充満していることをよく表しているように思う。カトリック教会で毎日ささげられているミサ聖祭も、救いのためのいけにえとなったイエズスご自身の十字架上の奉献を祭壇上でささげるものにほかならない。

日本では、釘付けにされて苦しむイエズス像は「残酷だ」と敬遠されるようだ。そのせいか、磔刑像ではなく十字架を背景に両手を広げて前を見据える像が「復活のイエズス」として掲げられていることがある。個人的には、あまり好きになれない。
実際に残酷なことが起こったのだ。そして今も、わたしが毎日犯す罪のひとつひとつがイエズスの傷の痛みを増している。神が来なければ救われないような状態にまで堕落したのは人間自身であり、救い主を十字架にかけたのも人間だ。自分の罪を隠しても仕方ない。自分の罪を自覚しなければ、「罪から救われる」ということの意義など分かるはずもないだろう。
また、悲惨で残酷であるほど、それを進んでお受けになった神の愛がどれほど深いものか分かるというものだ。だからこそ、キリスト教徒にとって十字架は敗北の象徴ではなく神の愛と勝利の象徴となったのだ。十字架の死という偉大な瞬間を別な像で覆い隠してしまうのは、大切なことが水で薄められているような気がしてならない。

十字架の死に至るまで我らを愛し給うた主イエズス、忘恩の徒なる我らを憐れみ給え!

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