|
>聖書を読まねばキリスト信者たり得ないという暴論は、古代教会の信者を貶めるだけでなく、神を貶めるものである。
http://blogs.yahoo.co.jp/kjrik/13944585.html
カトリック教会が正典目録を定めるまでの数百年間、キリスト教に「これが聖書」といえるものはなかった。
その数百年間、世界にキリスト信者はいなかったのだろうか? そんな馬鹿な話はない!
人は聖書によってキリスト教徒になるのではない。
聖書が信仰を作るのではなく、キリスト教信仰(カトリシズム)が聖書を作ったのだ。
詳しく言えば、カトリック教会成立(紀元30年頃)以降、数多く書かれた書物や書簡の中で、「神の霊感によって書かれた」と教会が認めたものを、教会は「聖書」として一巻にまとめたのである。
岩下壮一神父は、この点について次のような言を遺している。
カトリック信者はもとより聖書を尊重する。彼にとって聖書は神感によって書かれた不可謬の神の言であり、(中略)これなくしては(中略)もはや活くるに堪え難くなるであろう。」
しかしカトリック信者の信仰は、聖書に基づくものではない。なぜならば、彼の信仰は新約聖書に先在するからである。彼の信仰が新約聖書を作り出したので、聖書が彼の信仰を産んだのではない。それは彼の有する信仰の記録にすぎぬ。(岩下壮一『カトリックの信仰』第十四章、講談社学術文庫)
プロテスタントは、しばしばカトリック信者は聖書を知らぬとか読まぬとか言って非難する。事実我等は聖書について彼等のように神経質ではない。自分等の教会の作ったもので日夕その精神を呼吸しており、その内容は聖書のテキストによらずとも、教会の祈祷書や、説教や、教理問答によって絶えず教えられているからである。我等は霊的修養の書として聖書を読む。信仰は教会を通じて既に与えられているのだから、その信仰の光に照らして聖書をよみ、心の糧とするのである。我等が聖書をよむのは心読体読するので、本来同一なる信者の心にある信仰と、聖書を作り出した精神とが、以心伝心的に交感するのである。決してこの語は複数だからこういう意味だろうとか、この章の史実性があやしいとかいうような、つまらぬ詮議だてをして日を暮らしているのではない。重要な点は教会にきけばわかる。細目にわたって研究したければ、自由に研究し、討論する。而して教会の信条に抵触せぬ限り、できるだけ寛厚にあらゆる解釈を包容しておく。どれが絶対的にまたは排他的に真であるか、確かな保証がないからである。それをきめる必要が生じた場合には教権が発動してきめるから、それまでは安心して、できるだけ大胆に、かつ自由に討究する綽々たる心の余裕がある。(同上、第九章)
さらに言えば、聖書がカトリック教会の検閲と編纂によってできたという歴史的事実がある以上は、悪い言い方だが、聖書の中にカトリック教会にとって都合の悪い文言が残っているはずがないという見方もできるだろう。
だから、聖書と教会を対立させたり、聖書をもってカトリックを批判したりするのは、愚の骨頂、というか不可能なことだと私は思うのである。
|
仰るとおり!『聖書』は協会共同体の信仰があって、初めて成立し、育まれてきたものです。その共同体はまた、教導職の解釈する神のことばによって力づけられてきたのですから。このことももっと書きたいと思っています。そうそう、教会理解にはこのブログで大切なことをたくさん書かれているので、お気に入りと他のブログにリンクを晴らせていただきますね。
2005/10/19(水) 午前 7:52
私はカトリックで幼児洗礼でしたが、20歳ころカトリックと新教との 間でかなり迷いました。 しかし岩下師の「カトリックの信仰」を読み、カトリックこそが唯一・正統のキリスト教であるとの確信を得ました。
[ fd4*16*19*4 ]
2007/1/15(月) 午前 2:41
私は、聖公会から、カトリックに改宗したものですが、以前から、カルメル会の神父様からご指導を受け、本来のカトリック信仰はある程度学ばさせていただいています。改宗した理由は聖公会が度を超したリベラルに汚染されつつあるためですが、何と、移籍した小教区教会は聖公会以上にリベラルで、時には左翼的活動が公然とおこなわれているのです。教皇様はこんなことは、認めていないでしょうに、一体なにがどうなっているのでしょうか???
十字架の聖ヨハネや大聖テレジアの教えについての話をすると煙たがれるのです。
そんな話は今の時代には合わないと。
[ Jkルス ]
2010/12/21(火) 午後 10:11