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東方の三博士(三王)が神の子イエズスを礼拝するために贈り物を持ってやって来たというエピソードは、色々な興味深い意義を含んでいるように思います。
まずは、この話が記されているマテオ福音書・第2章から抜粋してみましょう。
イエズスはヘロデ王のとき、ユダヤのベトレヘムで生まれた。そのころ、東の国の博士たちがエルサレムに来て、「お生まれになったユダヤの王はどこにましますか。われわれはその星がのぼるのを見たので礼拝に来た」と尋ねた。・・・ヘロデは・・・、彼等をベトレヘムに送った。彼らがヘロデ王のことばに送られて出発すると、なんと、前にのぼるのを見たその星が先に立って、幼児のいるところの上に止まった。星を見て大いに喜んだ彼らは、その家に入って、子どもが母のマリアと一緒にいられるのを見た。彼らはひれ伏して礼拝し、宝箱を開いて、黄金と乳香と没薬の贈り物を献上した。 (バルバロ訳『聖書』)
「博士たち」のことを、底本(ラテン語)では「Magi」(Magusの複数形)と書いています。Magusには魔術師という意味もありますが、ここでは「司祭階級に属し、同時に天文学者でもあり政務にもたずさわっていた」(バルバロ訳の注)人を指しています。
「三王来朝」という言葉があるように、この博士たちを「王」と見る向きもありますが、王国の最高支配者というよりも、学者であるがゆえに「まつりごと(政治・祭祀)」を主導する立場にある人と見るほうが自然でしょう。
マテオと同じく御降誕の状況を描写するルカ福音書では、羊飼いたちが幼子イエズスを礼拝するエピソードが記されています。彼らは、言わば貧しく学もない人々の代表です。彼らには天使と天の軍団が出現して、救世主の誕生を教えてくれました。
一方、三博士にはそのような超自然的な助けはありませんでした。彼らは学問によって、つまり人間の理性の力だけを使って、「その星」を発見し、その意味、つまりイエズスのところに行って「ひれ伏して礼拝」すべきだということを理解したのです。
何か学問に関わっている人や、少なくともまっとうな常識を持っている人には言うまでもないことなのでしょうが、神がこの世界を創造した以上は、真正な宗教と正確な学問とは矛盾するはずがないのです。
理性的推論のみによって唯一の神の存在が証明されるように、学問は(啓示のみによって教えられる神秘の領域には至れないとしても)宗教の問題を適切に考察することができます。
啓示と理性はキリスト教という車の両輪のようなもので、どちらが欠けても真理の道を大きく外れてしまいます。
ところが、今の日本では、宗教と科学は対立するものだという考え方が一般的ですね。
宗教は個人の心に関係する話で、科学とは無関係、みたいな。「こころ」と言えば聞こえはいいですが、ぶっちゃけ「宗教なんて個人の思い込み」だと言うわけですね。思い込みでない宗教があるかもしれないとは考えてもみないのでしょう。
一方、宗教の側もそういった風潮を利用して、当たり前の検証にさらされることすら避けてきました。
仏の存在を科学的に証明した人がいるでしょうか? 仏教の究極理想は悟りを開いて輪廻の循環から脱することですが、そもそも輪廻転生という大前提が、事実に反しているのではないでしょうか?(生物は死ねばまた人や動物に生まれ変わるという話ですが、それは地球上の生命体の数が常に一定だということを意味します。そんなことがあり得るでしょうか?)
神道だって、美しい外見と政治的な鎧を取り去ってその内実を見てみれば、極めて原始人的な自然崇拝と怨霊の畏怖に過ぎません。伝統的慣習であるとか日本人の心(また「こころ」がでてきます)を持ち出して科学的検証から逃げているのではないでしょうか。
神道や仏教の非科学性はともかく、現代の日本人が「宗教と科学は対立する」と無根拠に思い込んでいる直接の原因は、プロテスタンティズムに由来しているようです。
カトリックは、真正な宗教かどうかは別として、少なくとも前提としては常識的なものの見方をしてきました。啓示と理性の両方を大事にしてきたのです。「カトリック」という言葉が「普遍的」という意味であるように、信仰は個人の内面に属するだけでなく、普遍的な客観的なものだと考えてきたわけです。
一方、教会を離れてプロテスタントという画期的な新宗教を作ることになったルターさんは、理性を「娼婦」と呼んだと言われています。しかし、理性を追放してしまえば、信仰は普遍性・客観性を失い、個人の思い込みの領域に狭められてしまうのは目に見えています。
「自分の思い込み」イコール「神聖なキリスト教信仰」と断言できてしまう確信というのはすごいもので、ルターさんは自分に都合の悪いことが書かれている新約聖書のヤコボ書簡を「わらくずの書簡」と呼んで、聖書から除こうとさえしたそうです。
プロテスタント諸教団の大原則である、信仰の源が「聖書のみ」というのはどこへ行っちゃったんでしょう? もっとも、「聖書のみ」という原則自体が聖書のどこにも載っていないばかりか、そもそも全く聖書的じゃないんですけどね・・・。
ともあれ、聖書を好きなように(ただしカトリック的でない限り)解釈してよく、それらの解釈はそれぞれ正当と見なされる(聖書の自由解釈といいます)とか、信仰と不可分に現れる外面の行動はどうでもよく内心に信仰心がありさえすれば良いという「信仰のみ」といったプロテスタンティズムの方針が、信仰の「内面化」つまり「私事化」を推進しました。信仰と理性とが断絶してしまったのです。
このような背景で、反キリスト教的な傾向を持つ近代哲学が成立しました。明治以来、近代哲学しか聞くことのなかった日本の私たちが、ついつい「信仰は個人の心の問題だ」と考えてしまうのも、無理はないのです。(ここらへんの事情は稲垣良典先生の本で説得的に書かれてます。)
聖書の記述に戻りましょう。カトリックで大切にされている「清貧」の徳を実践していた羊飼いたちはイエズスの所へ天使に導かれました。学者たちにはそのような助けはありませんでした。しかし、彼らも神を見出したのです。
啓示と理性と、比較すれば啓示のほうがはるかに偉大なのは明らかです。また、信仰は超自然的な恩寵によるものであって、理性的推論が信仰になるわけではありません。
けれども、だからといって信仰生活に理性が不必要だということにはなりません。自分に都合のいいことを「これは啓示だ」と勝手に思い込んでいれば良いというものではないでしょう。
信仰は個人の思い込みやら「魂の盲目的な動き」ではないのです(第1バチカン公会議「Dei Filius」参照)。
東方の三博士の贈り物は、イエズス・キリストの天上地上の支配権、信仰生活に必要な典礼、キリストの死と復活、を象徴するものでしたが、このエピソードが聖書に記載されたということは、信仰が「魂の盲目的な動きではない」ということを教えてくれる、私たちへの大きな贈り物かもしれませんね。
「聖書に基づく信仰」についてはこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/13599130.html
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