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カトリック的。
信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

書庫贖宥(免償)とは何か

贖宥3.煉獄

(つづきです) 前回は、罪の2つの結果に応じて、改悛の秘跡を授かり、償いを果す必要があるということを見てきました。それらは生きている信者の話です。死者はどうなるのでしょうか。


償いが終わらずに死んでしまったら?


神の恵みと神との親しい交わりとを保っていながら、完全に清められないままで死ぬ人々は、永遠の救いこそ保証されているものの、死後、天国の喜びにあずかるために必要な聖性を得るよう、ある浄化の苦しみを受けます(「カテキズム」1030)


償いの業をするのはいい。でも、生きているうちに償いの業が終わらなかったらどうなるか。当たり前ですが死後に功徳を積むことはできません。天国に入る資格がありながら、まだ天国に入る準備が終わっていないのです。宙ぶらりんのまま天国にも地獄にも行かずにいるのでしょうか?

その答えは聖書にありました。

使徒聖パウロの書簡に、この世で不完全な仕事しかしなかった者も、「火の中を通ったようにして」救われる、と書かれているんです。
つまり、この世で償いを果し終えなかった者は、清めの火という苦しみによって清められ、天国へ入るのにふさわしい状態になる、ということ。残っている償いの大小によって、火の苦しみの強さや期間の長さは人それぞれ違うでしょうが。

この「浄化の苦しみ」、いわば天国の入場券を持っている霊魂がお風呂に入ってきれいになる過程(プロセス)のことを、カトリックの用語で「煉獄」といいます。ラテン語で「Purgatorium」、文字通り「清めをする場」という意味です。

聖書に「煉獄」という言葉は出てきません。しかし、霊魂が清めを受けるプロセスを想定しないと理屈に合わないというだけでなく、聖書の中にも、煉獄の清めを指し示す箇所がいくつもあります。たとえば先に言った使徒聖パウロの書簡。

イエズス・キリスト以外のほかの土台を、だれも置くことはできぬ。だれかが金や銀や宝石や木や草やわらを用いて、その上に建築するなら、おのおのの仕事ははっきりわかるようになる。かの日がそれを現すだろう。主の日は火の中に現れ、おのおのの仕事の価値はその火によって試されるからである。土台の上に建てた建物がそれに耐えれば、立てた人はその報いを受ける。もしその仕事が焼ければ損失を受けるが、彼自身は火を通るようにして救われる(コリント人への第一の手紙3・11−15)


「ここでは三通りの人が区別されている。第一は、み国から除外される者。第二は、仕事をほめられる者。第三は、仕事は無駄であるが、どうにか救いを得る者である。私たちの考察に役立つのは、第三の部類の人である。つまり、した事は正しくなかったが、自分の過失を償う清めの苦しみを経て救われると言われているものである。」(里脇枢機卿『カトリックの終末論』より引用)


煉獄は聖書的じゃない?


先ほども言ったように、この「清めの苦しみの過程」のことを教会用語で「Purgatorium(煉獄)」というのです。「煉獄」というとまるで地獄みたいですが、実際は天国に入るための準備室(ただし苦しい準備ですが)なんですね。
ですので、里脇猊下は「獄」という字を避け「煉国」と表記していますし、ダンテの『神曲』の古い訳で原語に忠実に「浄罪界」とした例もあります。

よく、「カトリックは聖書に根拠のない教義を勝手に作ってきた、その一つが『煉獄』だ」なんて言われてますけども。
「煉獄」というのは「聖書に書かれている特定の事象」に対して後世の教会が付けた名前ですので、聖書の中に「煉獄」という言葉がないのは当たり前なんですよ。

「天にまします我らの父よ・・・」という祈りを「主祷文(主の祈り)」と呼びますよね。これは、主イエズスが教えてくれた祈りだから後世でそう名付けたのであって、聖書の中に「主祷文」という言葉は出てこない。だからといって「主祷文は聖書に根拠がない、カトリックが勝手に作った祈りだ」とは言えませんでしょう?


煉獄の背理的存在証明


先入観にとらわれて無理に煉獄を否定しようとすれば、少々おかしなことになってきます。
聖書に書かれていることが、互いに矛盾してしまうのです。

「天国に入る資格はあっても完全には清くない状態」というのは、決して例外的なことではなく、むしろ普通のことだと思うのですが、いかがでしょう。
たとえばここに、一人の信仰者がいます。かつて罪を犯したことがあったとしても、悔い改めて赦しを受け、神との関係を保っています。ところが、彼は他人への償いを終えられないうちに死んだ。あるいは、神以外のもの(自分が大事にしていた物など)に対する愛着が少しは残っていた。よくありそうな話ですね。

さあ、仮に煉獄が存在しないとして、彼は天国に入れるでしょうか?

もしも「入れる」とすると、「汚れた人はそこを歩かず」(イザヤ書)等とあるような天国の完全性を損なうことになってしまいます。「すきに手をかけてから、後ろを向く者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9・62)ともあります。
果たすべき償いを終えないまま、あるいは被造物への愛着を持ったままで、天国に入れるとは思えませんよね。

とはいえ「入れない」とすると、信仰を持ち神との関係が保たれているにも関わらず、別の理由で天国を拒まれる人が出てくることになります。これは使徒聖パウロの「救いは信仰による」というテーゼに反します。
信仰はあるのに善業が不足していたせいで救われない、などという結論は受け容れがたいのではないでしょうか?

「入れる」も「入れない」も、行き詰ってしまいました。
これは「煉獄は存在しない」という前提が間違っていた、ということになるのではないでしょうか?


余談が過ぎました。煉獄についてはまた別の箇所でお話しすることにしましょう。
続いては、いよいよ贖宥(免償)の話です。



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http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/25812496.html

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