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(つづきです)
贖宥(免償)とは
それではいよいよ贖宥(現在は免償ともいう)について「カテキズム」を見てみましょう。
免償は、罪科としてはすでに赦免された罪に対する有限の罰の神の前におけるゆるしであって、キリスト信者はこれをふさわしい心構えを有し、一定の条件を果たすとき、教会の介入によって獲得します。教会は救いの奉仕者として、キリストおよび諸聖人のいさおしの宝をもって分配し付与します(「カテキズム」1471)
贖宥(免償)の基本構造は上にあるとおりです。
贖宥とは、
「改悛(ゆるし)の秘跡によって罪を赦され、天国に入る資格を持ってはいるが、天国に入るにはまだ十分に清くない」人が、
天国にふさわしい状態になるために「償い」(この世での償いの業、煉獄での「清めの火」の苦しみ)をするのを助け、
その苦しみやその期間の一部または全部を免除するものです。
ところで、死者はどうやって煉獄での火の苦しみの(一部または全部の)免除を獲得できるのでしょうか。
すべての信者は、部分免償または全免償を自己自身のために収受し、または代祷の様式で死者に付与することができます(「カテキズム」1471)
生きている信者は、自分が獲得した贖宥を死者のために譲ることができるのです。これによって死者は苦しみの一部または全部の免除を得ることができます。これは死者にとって大きな助けとなると同時に、贖宥を譲る信者にとっても大きな善を行うことにもなります。
贖宥の財源
さて、教会はどうやって信徒の償いを免除しているのか。
その人が償いを終えるのに必要な功徳meritumの一部または全部を、教会が代わりに支払ってあげるわけです。下世話な言い方ですけど。
その肩代わりのためのお金(=功徳)はどこから来るかというと、天に積まれた宝の山、つまり「キリストおよび諸聖人のいさおし」つまり功徳の宝庫から分配されているのです。
「御血の一滴だけによっても世界のすべての罪を贖うことができる」(聖トマス・アクィナス作の聖体賛歌「Adoro Te devote」より)と言われるように、主イエズスが十字架上で自らをささげものとした犠牲の効力(功徳)は、全人類を救ってなお余りある無限の大きさを持っています。
さらに、イエズスは「善業を行って、天に宝を積みなさい」と仰せになりました(ルカ12・33参照)。
初代教会の時代から現代に至るまで、カトリックでは無数の善男善女が主の教えに従って天に宝を積み続けています。
つまり天にはキリストによる無尽蔵の、義人たちによる有限だが莫大な、功徳の宝があり、今も増え続けているのです。
これが「カテキズム」中の「キリストおよび諸聖人のいさおしの宝(1471)」の意味です。
なぜ神は贖宥(免償)を定めたのか
免償は教会を通して得られます。教会はキリスト・イエスによって与えられた、つなぎ、解く権能によって、キリスト者個人の仲立ちとなり、キリストや聖人たちの功徳の宝庫を開き、罪のために受けるべき有限の苦しみ(罰)のゆるしをあわれみ深い御父からいただけるようにします。このようにして、教会は単にキリスト信者を助けるだけでなく、敬神と償いと愛の実践を彼らに促すのです(「カテキズム」1478)
さて、イエズスはこんなたとえ話をなさいました。
主人がしもべたちにお金を預けて長い旅に出た。旅から帰ってきて、預けた金を運用して増やしたしもべには誉めて褒美を与え、金を死蔵したままだったしもべを叱責した、という話です。(マテオ25・14-30、ルカ19・11-27参照。)
このたとえ話を贖宥に結びつけ(こじつけ?)たのは私の単なる思い付きです。が、この、いわば「恩寵の資産運用」を命じる話のように、教会は天に積まれた功徳の宝を死蔵するのではなく、信徒に分配することで善業の実りを与えると同時に、その恵みを受けた信者が回心して善業に励み、天の功徳の宝庫を一層ゆたかにするように勧めるのです。
「教会は単にキリスト信者を助けるだけでなく、敬神と償いと愛の実践を彼らに促す(1478)」とはそういうことです。
贖宥は神の愛のシステム
ここで話を整理してみましょう。
イエズス・キリストが「善業を行って天に宝を積め」と命じたことは、興味深い事実を意味しています。それは、人の行為には、行為それ自体の価値とは別に、神の前での価値というものがある、ということです。
現世的には耳目を集める行為であっても神の前では無に等しい、とはよく言われること。
ところが、日常的な敬神、ちょっとした苦行(欲求を我慢するなど)、他人へのさり気ない親切、それらは、自分や他人に善を行うことでもあると同時に、神の前でも価値を持っているというのです。
善業はその行為自体の得点と、神の前での得点と、二重の得点になるわけです(神の前での得点が何点かは神のみぞ知る、ですが)。
さて、教会がある祈りや信心業に贖宥を付与するということは、その祈りや信心業が持っている神の前での価値を倍増させる、つまり付加価値を高めることになりますので、信徒がその祈りや信心業を行うモチベーションを高めることになります(何だかビジネス用語的ですなあ)。
聖アウグスティヌスでしたか、「善は他に及ぼさざれば止まぬものなり」という格言があります。善とは自己完結的ではなくて、他の人にもそれを味わってほしいので、他者への善を促す、そういう性質を持っているというのです。
ですから、教会が功徳の宝の一部を切り崩して贖宥を付与すると、その善業を味わった人もしくは行った人自身が善に感じて更に善を他に及ぼし、それぞれ功徳が天に積まれていきますので、投資した以上の(倍々の)収入が天の宝庫にもたらされるのです。
こうして、天の宝庫は目減りすることなく、理論上は増える一方だというわけ。
まさに善業のネズミ講、福音のペイ・フォワード。
贖宥って、まさに神の愛のシステムだと思いませんか?
次回は、いよいよ贖宥を獲得する具体的な方法について見てみましょう。
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http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/26057655.html
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