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キリスト教と言えば、真っ先にイメージされるのが『聖書』だと思います。聖書はキリスト教で聖典とされ、とても大事にされています。今回は聖書について見ていきましょう。
◆よくある誤解
「キリスト教に興味があるので聖書を読んでみた」って人、けっこう多いみたいですね。
「聖書を読んだことあるから、キリスト教のこと少しは分かるよ」なんて言っちゃう人さえいます。
けれどもカトリックからすると、それってどうなのかな、と思います。
だって、順序が逆なんじゃないでしょうか。
キリスト教を知っていれば、「聖書」つまり「カトリック教会が聖典として制定したあの難解な書物」を読んでも少しは意味が分かる、というものではないでしょうか。
「キリスト教の知識を得ようとして聖書を読む」という人は、多分、何か誤解しているのだと思います。
「聖書はキリスト教の源泉」だとか、「キリスト教の信仰は聖書に由来するもの、聖書に基づくもの」といった誤解です。
それが誤解であることは、すぐ分かります。
というのも、もしも「キリスト教が聖書に基づく」ものであれば、新約聖書と呼ばれる数々の書物や手紙を書いた人たちはキリスト教徒ではなかったということになってしまいます。
聖ペトロや聖パウロ、また聖マテオや聖ヨハネといった人たちは、キリスト教徒ではなかったのでしょうか?
また、もしも「キリスト教が聖書に基づく」ものであれば、カトリック教会が「正典目録」(この書物とこの書物は聖書です、というリスト)を公布して「聖書を制定」するまでの約300年間、世界にキリスト教徒はいなかったということになってしまいます。
ローマのカタコンベに葬られた殉教者たちは、キリスト教徒ではなかったのにも関わらず迫害された、ということでしょうか?(いったい何の「教え」に「殉じた」のでしょうか?)
そんなはずはありませんね。
キリスト教の信仰が聖書を生んだのであって、聖書がキリスト教を作るのではありません。
◆聖書と映画
分かりやすいように、映画にたとえてみましょう。
神が人となって伝えた「神の教え=キリスト教」、これを1本の映画とします。タイトルは『福音―Evangelium―』とでもしましょうか。
キリスト教を託されたカトリック教会は、「映画『福音―Evangelium―』製作委員会」といったところでしょうか。
「映画『福音―Evangelium―』製作委員会」の目的はただ一つ、できるだけ多くの人に映画を見てもらうことです。
さて、この映画を見た人たちの中には、映画に感動して感想文やレビューを書いた人もたくさんいました。
その感想文やレビューの中で、映画の魅力を的確に伝えているものを、「映画『福音―Evangelium―』製作委員会」では「公式レビュー」として採用し一冊の本にまとめて、より多くの人々に映画を見に来てもらえるよう「オフィシャルブックレット」を作りました。この本が非常に好評で、まだ映画を見ていない多くの人にも広がったというわけです。それが聖書にたとえられます。
もちろん、聖書は単なる感想文とはまったく性質の違うものですけれども、順序という点においての聖書とレビューとの類比、お分かり頂けたでしょうか。
映画があって初めて感想文が書かれるように、キリスト教があって初めて、その信仰の記録(聖書)が書かれるのです。
その順序を逆にしてしまうと、まるで子供が親を生むと言うような、変な具合になってしまいますね。
◆「聖書に基づく批判」??
反カトリックの人が熱心に広めようとしている説の一つに、「カトリック教会は聖書に根拠の無い教義を作ってきた」というものがあります。
教皇を頂点とする聖職位階や、聖人崇敬、煉獄や贖宥(免償)などが、「聖書に書かれていない」という批判の的になっているようです。
実のところ、それらは聖書に根拠が無いどころか、ハッキリと聖書に書かれていたりするものなのですが、個々の問題については別のところで説明します。
さて、ここで問題とすべきは、「聖書を盾にして、教会(またはキリスト教)を批判する」という論理構造そのものです。
映画の類比を思い出してみてください。
映画の感想文を読んで、あれこれ映画について想像していた人が、いざ映画を見てみると自分の思っていたのと違ったというので「この映画は感想文と違うじゃないか!」と怒っているようなものです。
「この映画は間違っている」とか「道理に反している」という批判になら反論もできましょうが、「感想文に基づいていない」という「批判」(?)に対しては返事のしようがありませんね。意味不明です。
先日、ある宗教団体のホームページに「わたしたちは聖書に基づくキリスト教です。」と書かれているのを見て、ビックリ仰天しました。
感想文を偏愛するあまり、その感想文の基になった映画を無視して、感想文を原作とした別の映画を作ってしまおう、というのでしょうか。
カトリックからすれば、「自分たちの信仰の記録」が「別な人の別な宗教の源泉」になってしまうなんて、何だか変な気分です。
◆聖書とは何か
このように、キリスト教系の宗教団体の中には、「信仰の源泉」として聖書をあがめたてまつっている教団もあるようですね。一方、カトリックでは、聖書とはいったいどのような位置付けなのでしょうか。
近代日本を代表する思想家、岩下壮一師は「カトリック教会にとっては、聖書はなくてもすむ物である」と述べています。
なぜなら、カトリック教会は主キリストによって設立され、真理の霊である聖霊によって導かれているものであって、聖書を読んだ人によって設立されたものではないからです。たとえば、教会の設立を記録している聖書の章句は、あくまで歴史的事実を説明するものなのであって、その章句をもとにして教会が作られたのではありません。
岩下師は、新約聖書とは使徒たちの「活ける言葉による伝道の補足または釈明として、場合によっては、パウロのロマ書におけるがごとく、その準備として書かれたものであって、これ等の書によってキリスト教の全班を伝えんとするがごとき意図は、もちろんなかった。概論や体系は、当時の流行ではなかった。また彼等はいずれも、書斎裡に静思して筆をやるがごとき閑人でも学究でもなかった。活ける言葉を離れて、ただ聖書によってのみキリスト教を捉えんとするがごときは、近代人の浅薄なる発案の一つであって、すべての便利ないわゆる文明の利器同様に、とかく人間を横着にする弊がある」とも述べています。
さて、私見では、聖書の特徴は次の2点にあると思います。
・カトリック信仰の記録である
・神の霊感を受けて書かれた書物である
同じ「聖典」と呼ばれるものでも、イスラームにおける『コーラン(クルアーン)』は、神の言葉がそのまま文字になったものとされています。
しかし、真正の「神のことば(ロゴス)」は受肉して人(キリスト)となりました。
キリスト教(カトリック)は書物や文字に基づくものではなく、「人となった神」に基づくものなのです。
「人となった神」の教えを受け入れた(つまりキリスト教徒になった)人たちは、その信仰に基づいて多くの記録(書物や書簡)を書きました。そのうちのいくつかの書物や書簡には、著者が執筆する際に神の霊感が介在したというのです。その意味で、「聖書の著者は神」と言われます。
聖霊は超自然的力によって彼らに筆をとる心を起させ、書くにあたっては、自分が命ずることをすべて、そしてそれだけを正しく理解するように助け、忠実に記録し、そして不可謬の真理をもって表現させようとした(レオ13世 回勅「Providentissimus Deus」、DS.3293)
つまり、聖書に数えられる書物や書簡は、聖霊が書かせたものですので、救いのための真理を誤りなく伝えるものであるのです。
これらの書物が教会によって聖なる正典と定められたのは、人間の才能によって書き記されたものを後に教会が承認したからというのではなく、また啓示を誤りなく含んでいるという理由からでもない。聖霊の神感を受けて書き記されたものであって、神がその著者であり、それが教会に伝えられたものだからである(第1バチカン公会議 教義憲章「Dei Filius」、DS.3006)
聖書は神によって書かれたものなので定義的に不可謬(確実な真理)ですが、逆に、内容が真理だから聖書とされたのではないということです。(神の啓示を誤りなく伝えるのであれば、たとえば誰かが「天主は愛なり」と書けば、それは啓示の一部を正しく記したものですが、だからといってそれが聖書になるわけではありません。)
聖書が聖書であるのは、「それが神を著者として教会に伝えられたものだから」という一点に尽きるのです。
カトリック信徒が誤りのない記録として聖書を受け入れ、信仰生活の支えとするのは、聖書が神の霊感によって記されたことを教会が保証するからです。
聖書を神の言なりとするのは、神人イエズスの建設し給える教会なりとの明らかな証拠を有するカトリック教会の不可謬の教権を認めるからである。而して教会にかかる権威を許すのは神人イエズスの証言を信ずるからで、聖書を信ずる事と教権に服する事とは、取りも直さずイエズス・キリストの神性を認むることになるのである。(岩下師『カトリックの信仰』講談社学術文庫、380頁)
教会の権威を認めなければ聖書が神の言葉だと信じる保証がなくなるし、
教会の権威を否定することは教会を設立したキリストを否定することになってしまいます。
キリストと教会と聖書は、論理的に切り離すことのできない関係で結ばれているのです。
◆キリスト教を知るには何を読めばいいの?
それでは、冒頭の話に戻りましょう。キリスト教について知りたい人は何を読めばいいのでしょうか。
つまり、「キリスト教とはこのような教えだ」と説明した本というのはあるのでしょうか。
「カテキズム(公教要理)」と呼ばれるものがあります。
カトリック中央協議会から『カトリック教会のカテキズム』(ISBN 4-87750-101-0)という分厚い本が出ています。
その他にも、サンパウロから出ている『カトリック要理』(ISBN 4-8056-1401-3)など、公教要理の本は沢山出版されています。
キリスト教とは何かを知るには、それらの本をお読みになるとよいでしょう。
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