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8月15日は聖母マリアの被昇天の大祝日でしたね。おめでとうございます!
被昇天Assumptioとは、聖母マリアが地上で生涯を終えた後、肉体と霊魂とともに天の栄光にあげられたということです。
聖母は人間であって神ではありません。自分の力で天に昇ったのではなく、神によって天にあげられので、「昇天」とは言わず「被昇天」と言います(これ大事)。
なお、これは神によって啓示された真理であり、カトリックの教理の一つです(教皇令『Munificentissimus Deus』1950年, D.S.3900-3904参照)。
この被昇天、キリスト教の大きな祭日の一つなのですが、プロテスタント諸教団の信者さんの中には、「マリア崇拝ではないのだろうか」「聖書に反する教義ではないのだろうか」と困惑する人もいるかもしれませんね。
私は司祭でも神学者でもないので偉そうなことは言えませんが、昔習った要理を思い出して、簡単にお話ししてみますね。
◆「マリア崇拝」ではない
まず、「マリア崇拝」云々に関しては、「被昇天」とわざわざ特別の用語を使って「主の昇天」と区別していることからも分かるとおり、聖母を「神(女神?)」として礼拝するものでないことは明らかです。
キリスト教で聖母が敬われること(カトリックの専門用語で「特別崇敬」といいます)については別の機会に詳しくお話ししたいと思いますが、少し見てみましょう。
キリストは「律法を廃するためではなく、完成させるために来た」(マテオ5・17)と聖書に書かれています。主は、十戒の第四戒「汝の父母を敬え」も完全に実行し、聖母を敬いました。
私たちキリスト者は、キリストに倣うことを求められています。主が敬った方を私たちも敬うのは当然のことではないでしょうか。
また、主は十字架上でマリアを指し、「見よ、汝の母なり」と弟子に仰せになりました(ヨハネ19・27)。マリアはキリスト者の霊的な母となったのです。霊的な母を敬うことは、「律法を完成させる」主のみ旨に従うことではないでしょうか。
◆被昇天の聖書的根拠を知ろう
さて、続いての問題は「聖母の被昇天は聖書に反しているのではないか」という点ですね。
そもそも「キリスト教が聖書に由来するものと考える」「聖書を盾にとって教会を批判する」ことの問題点については、以前に別の記事 http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/36117652.html で書きましたので、ここでは取り上げません。
いずれにせよ聖母の被昇天は、神の啓示であるだけでなく、聖書の記述からも必然的に導き出される論理的帰結なのです。順を追って見ていきましょう。
◆聖マリアは「神の母」
我らの主イエズス・キリストが「受肉して人となった神」であることは了解済みのことと思います。ヨハネ福音書の冒頭に「みことばは人となり、我らのうちに住み給えり」(ヨハネ1・14)とあるとおりです。
主イエズス・キリストが「神であると同時に人間である」ならば、マリアは神(子なる神)を生んだ、「神の母」であると言うことができるでしょう。
かつてネストリウス派という異端は、「キリストが神であると同時に人間である」ことを否定し、マリアは「キリストを生んだ者(クリストトコス)」ではあっても「神を生んだ者(テオトコス)」とは呼べない、と主張しました。
これに対し431年のエフェゾ公会議は、キリストにおいて神性と人性とが結合しているという真理を確認し、マリアは「テオトコス、神の母」であると宣言しました。
このように「神の母」という称号は、キリストが私たちの救いのために真に苦しみ、死に給うた「真の神であり真の人」であるという(聖書的)事実に由来するものです。
マリアを「神の母」と讃えることは、取りも直さず主イエズス・キリストを救い主として讃えることなのです。
(つづく)
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