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先日、出張で青森県に行ってきました。
本州最北の地とはいえ、暑いですねぇ! 日なたを歩いていたら、すっかり汗だくになってしまいました。
さて、仕事は青森市内だけだったのですが、合間に足を伸ばして弘前まで行ってきちゃいました。
弘前天主堂(カトリック弘前教会)は小さい聖堂なのですが、美しい祭壇で有名です。
最上部には「天使的博士」と称されるドミニコ会士、聖トマス・アクィナス。写真では判読できませんが、腕に抱えた書物に「SVMMA THEOLOGIÆ(トマスの主著『神学大全』のこと)」と記されているので、彼と分かります。
その左下にはドミニコ会の創立者、聖ドミニコ。(ドミニコがトマスの下にいるなんてビックリ!)
この聖堂が聖トマスに献堂されていることもあり、ドミニコ会士づくしになっています。
写真からもお分かりの通り、まさに「これぞカトリック!」と溜息の出そうな祭壇ですね。
しかし、これほど美しいものは珍しいにせよ、このような形式の祭壇は、少なくともつい最近までは、カトリックではどこの聖堂にもあったものなのです。
第2バチカン公会議の終了後、教皇パウロ6世が「悪魔の煙が神の教会の中に入ってきた」とおっしゃったように、現代のカトリックの一部には変な思想を抱いている人がいます。
ミサ聖祭とはイエズス・キリストの十字架上の犠牲(いけにえ)の継続です。カルワリオでご自身を天の父に献げたキリストが、ミサではパンとぶどう酒の形色においてご自身を献げるもので、十字架上の犠牲とミサ聖祭とは同じものなのです。
ところが、ある人々は、ミサとは単に「信仰共同体の会食」「宴会」だと主張しているんだそうです。
そのような人々が猛威を振るった地域では、弘前天主堂のような美しい祭壇は破壊され、代わりにテーブル状のものが「祭壇」として置かれるようになりました。
テーブルの方が、「共同体の会食」という概念をより直接的に表現しているというわけですか…。
確かにミサ聖祭は、犠牲であると同時に、(イエズスが「私のからだを食べ、私の血を飲む者は永遠に生きる」とおっしゃっているように)食事としての側面もありますが、その本質は飽くまでも「犠牲(いけにえ)」です。
私たちの最大の願いである罪の赦し、それを成し遂げた十字架上の犠牲が、リアルタイムのものとして祭壇上に顕現する、それがミサ聖祭の本質です。
昔は、ミサに与ることを「ごミサを拝む」とも言ったそうですが、これはミサ聖祭が主イエズス・キリストの臨在であることをよく表現しています。
数年前、日本の某教区のイベントで「宴会」と書いて「ミサ」とルビをふり、問題となったそうです。
また今でも「手作りのミサ」と称して(パーティーのプロデュースか何かと勘違いしているのでしょうか?)、自分勝手に作った「儀式=イベント」を行って喜んでいる人々がいます。
このような人々が主イエズス・キリストのもとへ立ち返り、再び一緒に主を礼拝する日が来ますように、祈りたいと思います。
いと甘美なるイエズスよ、主が人々に示し給いし御慈しみは却って彼らの忘却と冷淡と軽蔑とによりて報いらるるなり。されば我らは、主の祭壇の御前にひれ伏し、いとも愛すべき主の聖心が、あらゆる方面より受け給う、かくも憎むべき忘恩・冒涜を償わんがために特に礼拝し奉る。
(「人類の忘恩に対する償いの祈」より)
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プロテスタントでも聖餐式をしますが、パンと葡萄ジュースが配られみんなで頂きます。それはキリストの体と血を象徴するものであり、もちろんみんなイエス様に感謝していただきます。こんなに綺麗な祭壇を破壊してテーブルを置くなんて残念です。カトリックの中にもいろいろとあるんですね。
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2006/8/20(日) 午後 9:14
カトリックでない方もお読みになる場で、このような躓きとなり得るセンシティブな話を持ち出すべきではなかったかもしれませんね。反省。
[ カトリック的。 ]
2006/8/20(日) 午後 10:24
さて、カトリックでは「これは私の体・血」という聖書の言葉をそのまま受け入れ、また「神の言葉」の権威を認める立場から、キリストの代理者である司祭が聖別の言葉を唱えることにより、パンとぶどう酒は、外見はそのままに、完全にキリストの御体と御血に変わると信じています(全実体変化)。従って、パンの形をした御聖体はイエズス・キリストご自身であり、礼拝の対象です。シンボルではないのです。それゆえカトリックでは御聖体に対して尊敬を欠くのを非常に問題とするのです。少しニュアンスが分かりましたでしょうか…。
[ カトリック的。 ]
2006/8/20(日) 午後 10:24
その点で、カトリックのミサ聖祭(聖体の秘跡)と、プロテスタントの聖餐式とは、根本的に、まったく別のものなんです。 イエズス・キリストを食べる、言い換えれば主と一体となる(私たちの体が主の聖殿となる)、これはカトリック信徒にとって心理的には少しばかりの恐怖・緊張(そして畏敬)と大きな喜び、客観的には大きな恵みです。
[ カトリック的。 ]
2006/8/20(日) 午後 10:52
バチカンの典礼秘跡省局長のアルベール・マルコム・ランジス大司教は、第二バチカン公会議の教父達の意図に反して、聖体祭儀を「キリストの犠牲の再現」という概念よりも「一般的な宴会」として捉えるという混乱が起きていると問題を指摘されたそうですね。
[ famiglia ]
2006/8/21(月) 午前 10:27
は〜少し難しい話ですが、カトリックでは一体となることに恐怖と緊張が伴うのですね。私達プロテスタント(まあいろいろなプロテスタントがありますが)では毎週の礼拝で聖餐式をするわけではなく、定期的に行い、イエス様の十字架の死を改めて感謝するという感じでしょうか。あまり恐怖や緊張は感じません。厳粛な感じではありますけれど。どちらにしてもイエス様への感謝と言うベースの部分は同じと考えてよろしいのでしょうか?
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2006/8/22(火) 午前 0:01
弘前の天主堂は素敵ですね。実は、私、休みを利用して山口・島根まで足を伸ばしてきました。津和野は、隠れキリシタンの歴史もあり、それなりに良かったのですが、山口のサビエル記念聖堂は、ザビエルとサビエル、違う方なのでしょうか、それと、売店にはロザリオや女子パウロ会の書籍等がおいてありましたので、カトリックだとは思うのですが、あるんですね、カトリックにも、モダンアートで荘厳さとは少し離れた感じの教会が(^^;)
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2006/8/22(火) 午後 10:24
> maria_bless_usさん 同じ聖人です。カトリックの伝統的な読みでは聖フランシスコ・ザベリオですが、今ではザビエルの方が通りがいいですね。Xavierを何語で読むかにより、ハビエルだったりシャビエルだったりもするそうですよ。
[ カトリック的。 ]
2006/8/24(木) 午後 8:25
> 亮ちゃん 「恐怖」というより「畏怖」と言うべきでした。「余りに大きな御恵み・喜びで畏れ多い」という感じです。聖餐式は象徴的な食物を共に食べる儀式ですね。しかし聖体拝領は、パンではなく「(パンの外見の)イエズス・キリストご自身」を受けることなんです。カトリック信徒は聖体拝領の前に「主よ、我は不肖にして、主を我が家に迎え入るるに堪えず、ただ一言だに宣わば我が心癒えん」(福音書中の百夫長の言葉)と唱えます。
[ カトリック的。 ]
2006/8/24(木) 午後 9:03
新聞に長崎の教会群を世界遺産に・・って記事がありましたが、どうなんでしょうね。でも日本にあるカトリックの教会の多くの割合で長崎にあるとは知りませんでした。住んでいたのに。今となっては教会めぐりしたいと思います。
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2006/8/25(金) 午後 11:31
世界遺産の申請ですか!知りませんでした。確かに長崎にはこの弘前のように美しい聖堂が津々浦々にありますね。しかも、和魂洋才ならぬ基魂和才とでもいいましょうか、いかにも「教会」らしい外観ながら、実は日本の伝統的な建築技術を用いたものが多いそうです。
[ カトリック的。 ]
2006/8/27(日) 午後 11:08