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先日、中央線沿線の某教会でごミサに与ってきました。
都心の好立地ゆえに未信者も多く訪れる聖堂で、私も時々告解しに行くのですが、行くたびにミサの典礼がヘンチクリンになっていきます。残念でなりません。
今回は、ミサの一番大事な部分である「典文(奉献文)」の結び、「Per ipsum, et cum ipso, et in ipso…(キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに)」の部分が、ひどいことになっていました。
もう、怒りを通り越して泣きたい気分でしたよ…。
原文、つまりラテン語では、典文の結びはこう唱えることとされています。
司祭 Per ipsum, et cum ipso, et in ipso, est tibi Deo Patri omnipotenti, in unitate Spiritus Sancti, omnis honor et gloria per omnia saecula saeculorum.
会衆 Amen.
日本語のミサでは、次のように訳されています。
司祭 キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、すべての誉れと栄光は世々に至るまで。
会衆 アーメン。
以前にも別な記事で触れましたが、 http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/11599472.html
従来から日本では、この部分を典礼法規に違反して、会衆が「すべての誉れと栄光は・・・」から唱えるという過ちが一般的になっています。
繰り返すようですが、これは典礼法規違反であり、改めなければならないことです。
お話ししている某教会でも、以前は日本の他の教会と同じように、会衆が「すべての誉れは・・・」から唱えるという間違いを犯していました。
ところが、です。
先日私が訪れた時は、なんと、会衆が「キリストによって・・・」から全部、「典文の結びの言葉」を唱えていたのです!
間違いを改めるどころか、信じられない改悪です。
この「典文の結びのアーメン」は、「ミサ聖祭全体のなかでもっとも重要なアーメン」です(典礼聖省『Inæstimabile Donum』1980年)。
なぜなら、このアーメンは典文(奉献文)全体に対するアーメンであり、ミサの中心であり頂点である全実体変化と犠牲の奉献に対する会衆の信仰告白や積極的参加という意義も担っているからです。
従って、アーメンよりも前の文言から会衆が唱えることは、この「アーメン」の持つ重要性を相対的に薄れさせることであり、結果的には、ミサの犠牲に対する感受性を鈍らせてしまうことにもなりかねません。
実際、2000年に公布された『ローマ・ミサ典礼書の総則』では、この問題に対して積極的に間違いを正していこうという姿勢が表れています。
79 h) 結びの栄唱―神の栄光への賛美が表され、会衆は応唱「アーメン」によってこれを確認して結ぶ。
以前の版の『総則』では、ただ「会衆は応唱によって」としか記されていませんでした。新しい『総則』では、はっきりと「『アーメン』によって」と限定することで、会衆がその前の文言から唱えるというのは間違いであると指摘しています。
151 (中略) 感謝の祈り(奉献文)の結びで、司祭はパンをのせたパテナとカリスを取って高く掲げ、司祭のみが栄唱「キリストによって…」を唱える。会衆は最後に「アーメン」と応唱する。(後略)
この項でも、栄唱を唱えるのは「司祭のみ」であり、会衆は「アーメン」とだけ応唱することが定められています。
236 感謝の祈り(奉献文)の結びの栄唱は、主司式司祭のみが唱える。望ましい場合は他の共同司式司祭とともに唱えるが、信者は唱えない。
ここではハッキリと「信者は唱えない」と定めていますね。
日本の教会は、そしてとりわけ私が行った某教会は、これらの規定に違反しているということになります。
教皇ベネディクト16世聖下といい、典礼聖省長官アリンゼ枢機卿猊下といい、第2バチカン公会議後の逸脱した「典礼改革」を振り返り、正道に戻していこうという機運が高まっているというのに、日本では間違いを直すどころか、一層間違った方向に突き進んでいってしまっているようです。
どうか日本でも、「荘厳な」とまでは言いません、せめて「まともな」ミサ聖祭に与ることのできる日が、早く来ますように!
(今回はカトリックの人にしか分からない話で失礼しました。)
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