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前にも紹介したことがありますが、白取春彦『この一冊で「キリスト教」がわかる!」(知的生きかた文庫、三笠書房)に有益な情報がありますので、引用してみたいと思います。
著者はカトリックではありませんが、この本は「キリスト教がわかる」と題しているだけあって、通俗本にも関わらず非常に役に立つと思います(若干の明白な事実誤認は散見されますが・・・)。とある出版社に勤務する友人によると、この本はよく売れているのだそうですよ。
[以下引用]
ニセのキリスト教、ホンモノとここが違う!
みずからキリスト教である、あるいはキリスト教の系列だ、あるいはまた真のキリスト教だと名乗っている組織や団体で、内実はまったくキリスト教ではないものは多数あります。それらの多くは営利目的の組織であったり、勝手な解釈に基づく狂信的集団です。
しかし、政府はこのような集団にも宗教法人格を与えたりしていますから、まことに見分けがつきにくい状態になっています。また、いったんこのような組織に染まってしまいますと洗脳されてしまいますから、いったい何が本当のキリスト教であるのか気づくのに多くの時間がかかってしまいます。
そのようなニセキリスト教の特徴をいくつか挙げれば、
○聖書解釈がこれまでのものと極端に異なっている
○カトリック教会を否定する
○驚くような事柄を真理だとして聞かせる
○秘密主義である
○今までにない文書を聖書とする
○あらゆることを理路整然と説明する
○その組織のボスが神であったり仏であったりキリストの生まれ変わりであったりする
○信者の勧誘グループがある
○感情的である
○勧誘が強引かつ執拗である
○どのような形であれ金銭や財産を要求する
といった点があります。
次に掲げる三団体は、規模の大きなニセキリスト教です。
◆ものみの塔聖書冊子教会(エホバの証人)
突然に数人で、あるいは子供づれで戸別訪問してきたり、「目ざめよ!」という冊子、あるいは「ものみの塔」という冊子を持って道路にじっと立っているのがこの団体の信者である。たまに、学校の体育の剣道を拒否するとか、輸血拒否で死んだなどとニュースになるのもこの団体の信者である。
一八七〇年頃にアメリカのチャールズ・ラッセルという商人の聖書研究から始まり、その後継者ジョゼフ・フランクリン・ラザフォードが拡大した。この現実世界と既成のキリスト教教会のすべてが悪魔の支配化にあると独断する。
本部はニューヨークにあり、世界の信者数は約二〇〇万人。信者らが宣教に熱心なのはそれが義務とされているからである。
◆世界基督教統一神霊協会(統一教会)
この団体は原理運動、あるいは統一運動ともいう。大学で聖書研究サークルを作って学生を勧誘しているケースが多い。
勧誘のためには名称をいくらでもつごうよく変え、ナントカ国際会議とか称する場合もあって、カトリック神父や教授がだまされるほど手口は巧妙。集団結婚式で世間を騒がせているのもこの団体である。
一九五四年に韓国のソウルで文鮮明が創設。その四年後から日本への布教を始めた。教典は文鮮明が書いた『原理講論』。内容は単純な善悪二元論によっており、聖書を勝手に解釈するどころか、めちゃくちゃというほどに曲げて解釈している。
この団体では文鮮明をキリストと見なしている。しかし、その実体は若い人の道徳心を利用した悪徳商法にすぎない。
◆末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)
正式名称はいかにもキリスト教のようだが、内容はまったく違う。「モルモン教」という名称のほうが一般的である。アメリカインディアンが古代イスラエル民族の子孫であると信じ込む団体。
一八三〇年にジョセフ・スミスという男がアメリカで発足させ、埋められていた金板に書かれていたものを解読したのが経典『モルモン経』とされる。
キリスト教の安易なパロディにすぎない新興宗教であるが、世界に六五〇万人の信者を持つ。アメリカのユタ州のソルトレークシティが本拠地。
日本での宣教活動も盛んで、髪をきっちりと短く刈って清潔な背広、あるいはシャツにネクタイをしめて二人づれで街角を歩いて、いかにも正統的なキリスト教に勧誘するような口ぶりのアメリカ人が、このモルモン教の信者である。日本ではモルモン教の宣教師がタレントとしてテレビで活躍している。
[引用終わり]
今年もキリスト教と自称する宗教団体による犯罪がいくつか報道されました。
キリスト教を看板にした悪徳集団が多いようですから、お気をつけ下さい。
ただ、誤解しないでいただきたいのは、そのようなニセキリスト教団体に所属している信者個人のことを、邪悪な存在と見なしたり攻撃したりすることがあってはならない、ということです。
日本には「罪を憎んで人を憎まず」という格言がありますね。
カトリックでも、「罪」と「罪を犯した人」とを徹底的に分離して考えます。
どういうことかと言いますと、「どんな軽微な罪であれ、罪はどこまでも糾弾し排斥すべきだが、人間そのものはどこまでも尊重されねばならない、厭うべき罪そのものと犯罪者とを混同してはならない」ということです。
たとえば盗みという「罪」それ自体は(どんな軽い盗みであれ)断固として認めてはならないのですが、その罪を犯した「人」に対しては「七の七十倍でも」赦し、隣人として「自分自身と同じように」愛すべきだと考える、それがカトリックの姿勢です(難しいことですけどネ)。
同様に、上述のような教団の信者は、神に対する信念において間違っているのですが、だからといって「その人自身」の人格が否定されることがあってはなりません。
以前の記事で、「エホバの証人」のおじいさんと仲良くさせていただいたことがあった、ということを書きました。
私の方では(私がカトリックであるか否かに関係なく)彼らの聖書の翻訳や解釈が明らかに間違っていると確信していましたし、そう指摘もしましたけれども、そのおじいさんのことは好きでした。
彼の方も、教団から教わる通りに「カトリック教会は悪魔の組織で偶像崇拝だ」と信じ込んでいたようですが、いつも誠実に私と話してくれました。
真の寛容と対話は、「どちらの言い分も正しいと認める」などという非合理な折衷のうちにあるのではありません(なぜなら、互いに対立・矛盾する言説の両方が真であるということはあり得ませんから)。片方が真なら片方は偽、あるいは両方が偽ということはあっても両方が真ということはあり得ません。
「どちらも正しい」という非合理な折衷から始まる対話は、結局のところウソに立脚した対話ですから、失敗するしかないと思われます。
ホセ・ヨンパルト神父も仰っているように、「相手の考えが間違っていると確信しながらも相手自身のことを尊重する」こと、そこにおいて初めて、真の対話(宗教間対話も含む)が始まるのではないでしょうか。
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