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カトリック的。
信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

書庫カトリックは偶像教?


◆プロテスタントの礼拝定義


「礼拝とは何か」ということについて考える前に、プロテスタンティズムにおける礼拝の定義を見ておくのは役に立つと思います。
というのも、プロテスタント教の信者さんが正統のキリスト教を見て「偶像礼拝では?」と感じてしまうのは、彼らがキリスト教における礼拝の定義を誤解しているか、あるいは彼らの礼拝の定義が正統キリスト教のそれと異なっているためだと考えられるからです。

事実、長老派の牧師の娘として生まれ、著名な神学者スコット・ハーンの妻であるキンバリ・ハーンが、この点について的確に指摘しています。

マリア礼拝はカトリック教会がはっきりと禁止していますが、カトリック信者がマリアを礼拝しているように見えるのはなぜでしょう。
プロテスタントは、礼拝を「歌」、「祈り」、「説教」として定めています。ですから、カトリック信者がマリアを讃えて歌い、マリアに祈りをささげ、マリアについて説教したりすると、プロテスタントの人々にとってはマリアが礼拝されているとみなされてしまいます。
しかし、カトリックの人々は礼拝を「イエズスの御体と御血の犠牲」として定めています。
カトリック信者は、マリアへの儀式を献げたことがありませんし、また、祭壇上でマリアへの犠牲を献げることもしません。
  (スコット&キンバリ・ハーン『ローマ・スイート・ホーム』ドン・ボスコ社)

これはマリア崇敬について述べたものですが、聖母マリアに限らず、他の聖人や天使に対する崇敬についても、まったく同じことが言えます。

キンバリ・ハーンの分析は非常に明晰ですね。即ち、
(1)プロテスタンティズムにおいて「礼拝」とは、「歌」「祈り」「説教」である。
(2)しかるにカトリックでは聖母讃歌が歌われ、天使や聖人に向かって祈りが唱えられ、天使や聖人についての説教がなされている。
(3)従ってこれは神以外のものに対して「礼拝」を献げるものである、つまりカトリックは偶像礼拝である、
という論理です。

プロテスタントは相互に異なった教義を持つ数万もの宗派に分裂しており、教団によってはまた違った形で礼拝を定義しているところもあるかもしれませんが、カトリックの聖人崇敬を偶像礼拝だとする論理的根拠はこれ以外に無いと思います。
なぜならカトリックは、聖人や天使を、全能なる唯一の神だとか礼拝の対象だとか言うことは決してありません。従って、それでもなおカトリックを偶像礼拝だと攻撃したければ、「唯一の神だけに対して行うべき礼拝行為を天使や聖人に対しても行っている」と主張するしかないからです。

しかし、それは正しいでしょうか? この命題は、プロテスタントの礼拝定義を無理矢理カトリックにも適用することによって成立しています。けれども、「歌・祈り・説教」をもって礼拝だとするのは、適切でないように思われます。


◆それは礼拝か?


「歌・祈り・説教」が、プロテスタント教で「日曜礼拝」「聖日礼拝」などと称される会合・集会の中心的な構成要素であることは間違いありません。確かに「歌・祈り・説教」を除いてしまえば、彼らが「礼拝」と称する会合には、ほとんど何も残らないでしょう。
けれども、歌・祈り・説教は、それ自体が礼拝行為でしょうか?
礼拝ではない歌、礼拝ではない祈り、礼拝ではない説教というものがあるのではないでしょうか?

たとえば歌。毎週数え切れない程の歌がヒットチャートを賑わせていますが、それらの歌は礼拝でしょうか。また、カラオケで歌うことは礼拝行為でしょうか。
明らかに、歌うことがすべて礼拝行為だとは言えないことがお分かり頂けるでしょう。

祈りについてはどうでしょう。
祈りと訳されるラテン語「オラツィオoratio」には、「願い」とか「発言」というニュアンスがあります。
私たちは身近な人が亡くなると、よく「天国から私たちを見守っていてね」と語りかけ(=祈り)ます。これは偶像礼拝でしょうか? そうとは限りませんよね。死者に語りかけることが即ち死者を神と見なすことだとは言えませんし、神に対してだけ願うべき救霊を願うわけでもありません。
確かに異教の中には死者(先祖など)を礼拝するものもありますが、世の中にそういう迷信が存在するからといって、キリスト教が死者を神として礼拝していると主張する根拠にはなりません。

話は死者に限りません。私たちは日常的に、他人へ色々な依頼をします。「水を下さい」「今後ともよろしく」、などなど。
勝負事だと更に切実な祈りでしょう。「<>出てくれ!」「2−7、来い!」・・・。
だからといって、相手を「神」と見なして礼拝している訳ではありませんよね。祈るからといって、それが常に「礼拝」とは限りません。
要するに、神に対する祈りと、神以外のものに対する祈りとがあるということです。

そして説教。説教は礼拝に付随し、あるいは聴衆を礼拝へと導くものではありますが、それ自体が礼拝だとは言えません。講演会が礼拝ではないように、人々の前で演説するという「行為自体」は礼拝ではありません。


以上見てきたように、「歌・祈り・説教」は礼拝の一部として、また礼拝を表すためにも行われますが、それ自体が本質的に礼拝行為なのではない、ということはお分かり頂けたと思います。
礼拝ではない歌や祈りや説教というものもある、ということです。

従って、カトリック教会で天使や聖人に対して行われる崇敬を、それが「歌・祈り・説教」であるという理由で偶像礼拝とするのは間違いだ、という結論となります。
ただ、聖母崇敬・聖人崇敬・天使崇敬については、今後また改めて説明するつもりですので、詳しい説明はそちらをお待ち下さい。


今回は、カトリック批判の根拠としてプロテスタント教の人が持ち出す(プロテスタンティズムにおける)礼拝の定義は適切でない、ということを見てみました。
それでは、「礼拝」とは何なのでしょうか。礼拝の本質はどこにあるのでしょうか。次回は、そういった問題について考えてみたいと思います。



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