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カトリック的。
信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

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(つづきです)

◆信徒は現実世界との軋轢をどう処理しているのか


あなたはプロテスタンティズムを「原始回帰運動」とおっしゃいました。カトリシズムという「巨大な」、論理的に「無矛盾」な知の体系、これを離れて「直接的に」キリストと交わりたい、それがプロテスタンティズムの出発点と考えられるのではないかと。

もちろんそれはプロテスタントの自己認識であって、事実とは異なります。
原始・初代教会の時代から、世々に生き給う神はカトリック教会の中にこそ厳然として存在し(個人の心、想像力の中ではなく)、聖堂を訪れる信徒は相対して神を礼拝することができます。そして秘跡を通して、この上なく「直接的に」キリストと「交わる」ことができるのです。
ただしそれは個人の主観や実感とは関係ありません。ただ客観的な事実があるだけです。「事実」と「実感」は別なものです。

不幸なルターが陥った罠はそこにありました。
7つの秘跡のひとつに「改悛の秘跡」という秘跡があります。これは、「あなたたち(使徒およびその権能を継承する聖職者)が罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさぬ人はゆるされない」(ヨハネ20・23)という主のことば通り、信徒が罪を告白し、キリストの代理者である司祭の赦しの言葉によって罪が赦されるという秘跡です。

ルターはしかし、告解しても「赦された実感」を得ることができなかったといいます。明確に聖書に記されている事柄と、彼の主観的感覚とが、齟齬をきたしたわけです。
そこで、どうしたか。彼は、聖書の記述よりも自分の感覚を選びました。「私は赦された!救われた!」という実感を持てなければいけない、と主張したのです。プロテスタンティズムが「聖書の福音に戻る運動」だなんてとんでもない! 客観的真理よりも、自己の主観に閉じこもり、自己の感覚を絶対視する方を選んだのです。実際のキリストよりも、自分の思い描くキリストを選んだのです。
(私は、ルターの生涯におけるこのエピソードが、あなたが前回ご指摘になった近代の抱える諸問題の根底にあると見ています。)

あなたは、プロテスタントにあるのは「自己の信仰と、目の前に広がる現実世界だけだ」とおっしゃいました。
この言葉は、恐ろしいほどに正鵠を射ています。
普遍的(Catholic)ならざる個人の信仰は、他者の信仰とも外的な現実世界とも共通の場を有し得ず、自分の内面世界に幽閉されます。

個人個人の内面、主観にのみ存在するプロテスタント信仰と、厳然として存在する現実世界との間の大きなギャップを見るにつけ、私はむしろプロテスタント信者の方こそ「軋轢をどう処理しているのか」知りたく思います。


翻ってカトリック信徒には、そのような「軋轢」はありません。
以前も申し上げましたが、神によって啓示された真理、即ちカトリック教理を、真理だと承認した者がカトリック信徒です。カトリックにとって信仰とは個人的な思い込みではなく、普遍的な真理を承認する立場に立つことを意味しています。
従って、「論理的に無矛盾な」カトリシズムに則り、世界は本来かくあるべきだという共通認識のもとに、現実世界においても実践的に対処することができるのです。
カトリック教会の社会教説に関心がおありでしたら、『Compendium of the Social Doctrine of the Church』などをお読み下さい。

確かに一般的に言って、カトリックは社会改革運動などに対して関心が薄いのは事実です。
これは、神の民の政治的解放ではなく救霊のために来られたイエズス・キリストに従うからでもありますし、「すべての人は上の権威者に服従せよ。なぜなら、神から出ない権威はなく、存在する権威者は神によって立てられたからである」(ローマ13・1)という使徒聖パウロの言葉をまじめに受け止めているからでもあります。
人間の支配者を暴動や革命によって交代させることよりも、神の支配をこの世に実現させることの方に熱心なのです。

だからといって、カトリック信徒が現実世界への関わりを避けているとはおっしゃらないでしょうね。
何しろカトリックは、「信仰のみ」を標榜するプロテスタントから「善業主義」と罵倒されるほど、愛徳の業を実践することを重視しているのですから。


◆教会は政治的に無力ではないのか


世界大戦が起こったのは「カトリックの力が弱まったからであり、教会は人類の教化、啓発に失敗している」
というのは、あなたのご意見でもあると考えてよろしいのでしょうか。

当該箇所を読んだ時、思わず私は微笑みました。よりによってフロイトなんぞを持ち出してきたということではありません(それも少しあるけれど)。あなたがカトリシズムに傾倒する余り、少しばかり、否、かなりカトリック教会を理想化してしまっているのではないかと思ったのです。

教皇ベネディクト15世(位1914〜22)は、第一次世界大戦に際して中立を貫き、戦争そのものに反対しましたが、両陣営に分かれたカトリック諸国から反発され、戦争回避の努力は実りませんでした。
ピオ11世(位1922〜39)はナチズムや共産主義を非難する回勅を出し、続くピオ12世もナチスを痛烈に批判しましたが、むしろカトリック迫害を招くことになりました。

このように、教会の善への招きが聞き入れられなかったのは、近代になってカトリック教会の力が衰えたからなのでしょうか?

歴史を見てみれば、このようなことは別に第一次大戦が初めてではないことが分かります。
たとえば三十年戦争は、第一次大戦と状況がよく似ているのではないでしょうか。
また、中世を通じ教皇権力が最高潮に達したのはイノチェンツィオ3世(位1198〜1216)の時代と言われますが、まさにその時代に、カタリ派異端と意を通じた南仏豪族の手によって教皇特使が暗殺されるという事件が起きています。さらに、対カタリ派十字軍に対抗し異端を援助したのは、アラゴン王(後にカスティリヤとともに「カトリック王」の称号を与えられる王国です!)だったりするのです。

中世ヨーロッパでカトリック教会が各国を政治的支配下においていたなどというのは幻想でしかありません。

世界が教会の教えに従い、愛と平和に基づいた国際関係を構築するなどという理想社会など一度もあったためしがないのです。
教会の政治史は、あわよくば教皇庁を支配下におこうとする世俗勢力(神聖ローマ帝国、フランス、ナチズム、共産主義など)との虚々実々の駆け引きの上に紡がれてきたと言ってよいでしょう。そして生き残ってきたのは常に教会の方でした。

しかし、真の問題は別にあります。
「人類が悪事を行うのは、教会が人類の教化・啓発に失敗しているからだ」というのは、妥当でしょうか?


人間には自由意志があります。教会はこれこれが善でありこれこれが悪であると教えますが、それに従うか否かは個人に任されています。
ある人が神の教会に従わず罪を犯すとしても、それは教会が無力だからではありません。
もしも教会が真理を教えることに怠惰であり、人類に何が善で何が悪か伝えていないとすれば、それは教会の責任でしょうけれども。

教会がこの世界に対して働きかけ、聞き入れられないのを見て「滑稽」だとおっしゃいますが、私たちカトリックからすれば、滑稽なのはむしろ自分の過ちに気付かず教会を攻撃する連中がいるということです。
この問題については以前に記事を書きましたので、よろしければご参照下さい。
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/10727302.html


◆現在の教会は救霊よりも政治活動に熱心ではないのか


あなたが、現代の教会は「人の魂の救済より、政治に熱心だ」と指摘し、「コッケイな振る舞い」とおっしゃる通り、一部には実際に批判されるべき点があるのは事実です。
実は、現代のカトリック教会は残念な状態にあります。
第2バチカン公会議(1962〜65)の後、「公会議の精神」の名のもとに、実際の公会議の精神からかけ離れた「改革」だの「刷新」だのが行われ、カトリックと自称しながらも実はカトリックと言えないような意見がまかり通ってきた(最近は是正されつつありますが)状態なんですね。
要するに、教会が異端に対して寛大だった(この数十年間、異端として破門された人はごくわずかです)ので、組織内では紀律が弛緩し、そんな毅然とした態度をとれない教会のアピール度も対外的に低下してきたのでしょう。

ここで取り上げるべきは、南米などの「解放の神学」のようにマルクス主義と福音とを混同させる風潮です。バチカンはこのような思想に対して警告を発してはいますが、日本でもその影響を受けた司祭は多いと言われています。

解放の神学とは直接的に関係ないにしても、おかしな発想に基づいて司牧に当たる困った司祭が一部にいるのもまた事実です。即ち、神の国の実現を政治的解放や社会的福祉事業と混同していたり、秘跡を心理療法と混同していたり、といった具合です。

このように、第2バチカン公会議後の弛緩した空気の中で、非正統的な実践が見られるのも事実なのです。ただし、前教皇ヨハネ・パウロ2世や現教皇ベネディクト16世の頃から、そのような風潮を是正するような施策が始まってきたのもまた事実です。


何だかまとまりなく長くなってしまいました。
まとめてみます。


Q.信徒は現実世界との軋轢をどう処理しているのか?

A.信仰が個人の主観でしかないプロテスタントにおいては、自己の個人的信条と現実世界との間に軋轢を感じることがあるだろうが、普遍的真理に基礎を置くカトリックにそのような葛藤はない。

Q.教会は政治的に無力ではないのか?

A.教会が世俗国家等の賛同を得られないのは今に始まったことではない。教会は善を説くが、人間に自由意志がある以上強制できるものではなく、悪を行う者が存在するのも別に不思議なことではない。悪を行う人間がいるという事実は、教会ではなく悪を行う当人自身の責任である。

Q.現代の教会は救霊よりも政治活動に熱心ではないのか?

A.教会内に混乱した考えを持っている人間がいるのも事実。しかしそれは教会の公的立場ではなく、対策も始まりつつある。

Q.カトリシズムは賞味期限切れのドグマではないのか?

A.カトリック教理は神によって啓示された真理である。2000年前から変わっていないという点で極めて古いものだが、神は永遠であり真理は不変である。時代により特定の信仰箇条がたまたま時代錯誤に見えようとも、いささかも真理としての有効性を失うものではない。


hono_bono55様、相変わらずの乱文をおゆるしください。不明な点等ございましたら遠慮なくご指摘ください。

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    ありがとうございます。たいへん啓発される部分があります。自分でも、いろいろとカトリックの本を読んでおり、あなたの意見と合わせて、カトリックにたいする認識が、より正確になりました。世間では、かなり俗説が、まかり通っておりますので。できれば実際面での問題などもにも言及していただけると、さらに興味がもてるのですが。もしよろしければ、続編を期待しております。

    [ - ]

    2007/4/10(火) 午後 2:56

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    仰る通りです、的確なツッコミありがとうございます。確かに私はカトリックが「何でないか」は書いても「何であるか」は書きませんでした。hono_bono55様は、どのような「実際面」にご興味がおありですか? といっても私は要理は習っていても倫理神学は門外漢なので、ご関心の問題に対してうまくお答えできないかもしれませんが・・・。

    [ カトリック的。 ]

    2007/4/10(火) 午後 10:59

  • 顔アイコン

    前回チョットばかし言葉が過激であったのは、活発な意見が聞けるだろうという、かなりイジマシイ下心があった故です。ご容赦ください。小生、カトリックを理解したいとは思っても、ケンカを売る気はありません。次回、実際面と公理系が直面していると思われる問題を、お尋ねいたしますので、よろしければ、ご返事ください。

    [ - ]

    2007/4/11(水) 午後 1:37

  • 顔アイコン

    私の読んだ本「21世紀の挑戦にこたえる教会」山田経三:イエズス会・カトリック司祭によると、「解放の神学」を高く評価しており、今世紀にカトリックが取り組むべき課題とまで述べておりますが、あなたの意見では「解放の神学」は異端スレスレのようですが、どちらが正しいのでしょうか?

    [ - ]

    2007/4/13(金) 午前 4:55

  • 顔アイコン

    『Newsweek日本版』4月18日号に掲載された、教皇ベネディクト16世に批判的な記事の中で、次のような文章がありました。(以下引用)法王庁は昨年、中南米に大きな影響を与えた進歩派聖職者ジョン・ソブリノを批判。だがソブリノが説く「解放の神学」はすでに過去の遺物であり、バチカンの批判は悪意から発したよけいなまねだったとする反応がおおかたを占めた。(引用終り)ご参考まで。

    [ カトリック的。 ]

    2007/4/14(土) 午後 3:24

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