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先日、ある人が亡くなりました。
今日は告解してミサに与り、聖体拝領をしてから、聖堂で信心業をして、全贖宥(全免償)をゲットしました。もちろん、代願でその方に譲らせていただきました。
Requiem aeternam dona ei, Domine,
et lux perpetua luceat ei.
Reqiuescat in pace.
Amen.
贖宥(免償)については、「贖宥(免償)とは何か」という書庫をご覧下さい。
さて、今日のごミサの福音朗読は、使徒聖ヨハネの福音書の第6章でした。
ヨハネ6章といえば、聖体制定の表象となる章です。
でも、聖体の秘跡という、主イエズス・キリストからの最も偉大かつ甘美な御恵みを持っていないプロテスタント教徒にとってはヨハネ6章は新約聖書の中で最も理解不能な箇所といっても過言ではありません。
パンを増やす奇跡(これ自体、全実体変化によって複数のパンの形色のうちに唯一の主がおられることの予兆でありますが)の後、主は
「私は天から下った生きるパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。・・・私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を有し」云々とおおせになりました。
これが、聖体の秘跡を示しています。
屠られる小羊として十字架につけられた主イエズスが、パンの形色において祭壇上に臨在する、これがミサ聖祭、聖体の秘跡なのです。
主は、御自らが信者に食される「天のパン」であることを、ハッキリと語っています。たとえ話やシンボルとして話しているのではありません。
事実、これを聞いた一部の人々は嫌悪感を表明して去っていきました。シンボリックな話であれば人肉食と誤解することはなかったでしょうし、主自身も、つまらぬ誤解を招く表現をすることはありません。
プロテスタント教における「聖餐式(象徴的な食事としてパンを食べる)」と、正統キリスト教のミサ聖祭(聖体の秘跡)とは、根本的に違うものです。
聖書のこの箇所においても、命のパン(霊的な糧)と、通常のパン(肉体の糧)とは、明確に区別されています。
主ご自身が、「あなたたちが私を捜しているのは・・・パンを足るほど食べたからだ」と、通常のパン、つまり(ご聖体ではなく)会堂に集うことで得られる感覚的・肉体的な喜び、を求める人々を難詰しておられます。
キリストを主と認めるすべての人が、ご聖体のイエズスを共に礼拝する日が、一日も早く来ますように!
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冒頭のレクイエムの章句を見て、思い出しました。 レクイエムの交唱部分で Te decet hymnus,Deus,in Sion; et tibi reddetur votum in Ierusalem. (天主よ、シオンにおいて主を賛美するのはふさわしい。イエルザレムにおいて主への誓いは果たされる) という詩篇句が唱えられるのでしょうか?「主よ、永遠の安息を〜」とのつながりが私には分かりません。ご存知でしたら教えてください。
[ augustin ]
2007/4/25(水) 午前 0:06
死者ミサのIntroitusですよね、詩編64(65)。『Liber Usualis』注記に詩編ではRequiemを繰り返すとあります、通常時のdoxologiaに当るものなんですね。Intr.はexaudi orationem meam, ad te omnis caro veniat.(我が祈を聞き容れ給え、全ての肉身は御身へ至る)と続きますので死者ミサに採られたのでしょうか、私も素人なので詳しい方のご教示を願いたいところです。
[ カトリック的。 ]
2007/4/25(水) 午後 11:15