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現在でも流行しているのか寡聞にして知らないが、様々な名で呼ばれている或るムーブメントがある。
種々のセクト的なグループによって実践されているが、単一の宗派というより超教派的ムーブメントというのが適切らしい。
さて、彼らによると、救いのためには洗礼を受けるだけでは不十分だという。
「水の洗礼」だけでなく、「聖霊の洗礼」を受けなければならない、というのだ。
「聖霊」を求める彼らの集会において、参加者が感極まった状態になったり、意味不明の言葉を語りだしたりすれば、それは「聖霊を受けたしるし」と見なされる。
トランス状態で意味不明の言葉を語ることを、聖書に出てくる「異言」と同一視することが適切なのかどうか、また「目に見えるしるし」を求めることがキリスト者としてふさわしいのかどうか、大いに疑問はあるが、ここでは措く。
問題は、「水の洗礼」と「霊の洗礼」を対立的なものとして捉えていることだ。
彼らの論拠は
「水と霊によって生まれぬ者は天の国に入れぬ」(ヨハネ3・5)
であるが、この箇所をもって水と霊と二種類の洗礼があると考えるのは無理がある。
この章句で述べられているのは、キリストが制定した「洗礼の秘跡」の必要性である。
「上から(=再び)生れ」る(ヨハネ3・3)、つまり洗礼によってキリストの死と復活に与り、新しい生を受けることの必要性が説かれている。そして、キリストによる再生の水洗い(洗礼)こそが、「水と霊によって生まれる」ことだとされているのだ。
つまり、洗礼(彼らの言う「水の洗礼」)によって、「水と霊によって生まれる」即ち「水と霊の両方の洗礼」が含蓄されているということだ。
このことは、
「イエズス・キリストのみ名によって洗礼を受けなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう」(使徒行録2・38)からも明らかである。
洗礼の秘跡のうちに霊的要素が欠落しているなどと主張するのは、救いのためにこの秘跡を制定した主イエズス・キリストをおとしめることに他ならない、と思われる。
以上は、カトリックにとっては当然のことではありますが、当該ムーブメントはカトリック教会内にも一定の影響力を及ぼしているらしいので、念のため書いてみました。
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