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これまではキリスト教を見ていく前段階として、「宗教」というものについて広い意味から狭い意味まで見てきました。
ここからは信経(キリスト教の信仰箇条を簡潔にまとめたもの)に即して、キリスト教とは一体どのようなものなのか、一体どのようなことを承認すべき事実として提示しているのか、見ていきたいと思います。
使徒信経、ニケーア信経ともに、「Credo」という言葉から始まっています。これは、「私は信じる」という意味です。
ちなみに、この最初の単語をとって、キリスト教信仰宣言のことを「クレドCredo」と言います。近年、ビジネスでも会社の基本理念のことを「クレド」と呼ぶところが出てきていますが、ここから来ているんですね。閑話休題。
さて、宗教といえば「信じる」という言葉がついてまわります。
合理主義者を自認する人たちは、「宗教なんて非合理なもの、しょせんは信じるしかないものだ」と言います。宗教は論理的・科学的なものではなく、個人が勝手に思い込むだけのものだ、という訳です。
一方、ある種の宗教(例えば仏教など)はこう言います。「西洋合理主義の時代は終わった。これからは<こころ>の時代、信じることの価値を再評価しなければならない」。
かたや合理主義、かたや宗教と、一見正反対の意見のようですが、実は両者に共通する点があること、お分かりになりますか?
それは、どちらも「信じる」ということを非合理的・非理性的な個人の感覚の問題として捉えているということです。
合理主義者は「宗教は非科学的な迷信だ」と言い、宗教(仏教など)の側は「迷信で結構」と開き直っているかのようです。
現在、中高年の間では仏教ブームが起きています。若年層では「スピリチュアル」と称して、霊能者と称する連中がTVで宣伝するオカルトや占いが大流行です。
「信じる」ことを除外し表層的に享受するということによって、「宗教なんて非科学的だ」と言いながら同じく非科学的なものを消費するという矛盾を隠し、自分を納得させているように思えます。
先ほど、仏教などの宗教が「西洋合理主義の時代は終わった、これからは理屈では割り切れない<こころ>の時代だ」と主張している、と言いました。
考えてみれば、この主張もおかしいと思いませんか?
物事を論理的に考えるのは、決して「西洋」の専売特許ではありません。現代の日本人の多くが論理的な考え方をしていない(進化論を認めていながら、進化論と真っ向から対立する輪廻説に基づく仏教を受け入れるという自己矛盾を犯している)のは事実です。しかし、だからといって日本人に論理的思考の能力がないとか、非科学性が日本の美徳だとか言うのは、事実に反しているばかりか、日本人に対する侮辱でさえあります。
プロテスタンティズムに基づく西洋近代主義は、確かに行き詰まりを見せています。近代主義が「合理的だ」ともてはやしていた考え方は、環境の破壊や人間性の否定に陥るしかないことが明らかになってきました。
だからといって、「論理的なものの考え方」を捨ててよいということにはなりません。近代主義が論理的だと見なした理屈が実は論理的ではなかったということをこそ(論理的に)指摘すべきであって、論理や理屈を放棄してしまうのでは本末転倒です。
ましてや、理性を捨てて非科学的な輪廻説や人間崇拝・自然崇拝に退行させようとする昨今の日本の風潮(一部の知識人が「日本古来の伝統に戻れ」などと宣伝している)は、近代主義に毒された西洋人にも劣ると言わざるを得ません。
近代の西洋人は論理の立て方(または出発点)においてこそ間違っていたものの、少なくとも論理的に考えようと(中世以来の理性重視の立場を堅持して)いたのですから、私たちが理性の否定という究極の非論理的な立場になるようでは恥かしいのではないでしょうか。
「信じる」という言葉の問題に戻りましょう。
今から500年ほど前、プロテスタンティズムは「信じることは個人の内面の問題である」という人類史上画期的な主張を打ち出しました。信仰は客観的・論理的に検討され得るものではなく、個人の勝手な思い込みに過ぎない、というのです。個人の感情の問題なのですから、その「感情」が合ってるとか間違ってるとか、他人にとやかく言われる筋合いはない、というわけです。
この新説(珍説?)は、その後の世界に絶大な影響を及ぼしました。
それまでは、「信じる」ということは個人の思い込みではなく、客観的にその是非を論ずることのできるものだというのが当たり前に受け入れられていました。ですから、たとえば聖書ひとつとっても、色々な読み方ができるでしょうけれども、何か解釈判断を下す必要が出てきた時には、(個人の勝手な考えには何の権威もありませんから)聖書の著作権保持者であるカトリック教会が裁定するわけです。
一方、プロテスタントにとって「信仰は個人の内面の問題」という主張は、「聖書の誤読・曲解の権利」を意味しています。聖書、つまり神の言葉の記録を、個人が好きなように解釈できる、間違った解釈をすることさえできる、そしてその解釈は「個人の内面の問題」なのだから誰もそれを「非論理的だよ、間違ってるよ」と指摘してはならない、ということです。
「信仰は個人の問題」で、「誰も(キリストが設立したカトリック教会でさえも)、ある人の信念がキリスト教と矛盾しているなどとは指摘できない」というのですから、たとえその人の主張が聖書を真っ向から否定するものであっても、その「聖書解釈(誤読)」もまた正当なキリスト教として認めなければならない、という理屈です。
ある宗教を否定しながらその宗教の信者と名乗りたい人にとっては非常に都合のいいロジックですね。
さて、この考え方は、明治期以降の日本がお手本としたのがプロテスタント国家だったこともあり、我が国でも急速に広がり、一般化しました。
宗教が個人の内面の問題に過ぎないのであれば、国家は国民の外面的な行為を自由にコントロールできることになりますから(たとえば、兵役を忌避する宗教に属する信者に対しても、その信仰は個人の内面の問題に過ぎないのだから、外面的行為である徴兵に応じなければならない、という理屈が成り立つ)、国家にとっても都合がよかったのです(この問題は加藤典洋『日本の無思想』(平凡社)で説得的に書かれています)。
このロジック、戦前の日本で重宝されただけでなく、表向き「基本的人権」や「信教の自由」を尊重すると言っている共産主義国家では今でも健在ですね。
さて、今までの話からもわかるとおり、信仰を個人の内面に閉じ込めることは非常に大きな問題をはらんでいるのですが、問題はそれだけではありません。
ある信仰が適切であるか、外部から(科学によっても)検証することを一切認めないとするのですから、たとえばオウム真理教のような集団があっても、その信仰そのものを問い、検証することを可能とする場がないのです(誤った信仰の結果である個々の犯罪を法的に処罰することはできましょうが)。
オウム事件が起こったとき、メディアでは「西洋的な近代合理主義が行き詰まっている証拠だ」と騒がれました。残虐な犯罪に手を染めたオウム信者の多くが高等教育を受けた若者だったため、「科学だけではだめだ、理屈・論理では割り切れない<こころ>の問題も重視していかなくてはならない」というのです。
しかし、私はそうは思いません。
オウム事件が、近代主義が結ぶべくして結んだ恐るべき果実だったというのは事実です。ただ、その意味は、近代社会が「信じる」ことを科学(理性的検証)の対象から除外してきたため、私たちは宗教に対するセンス(常識)を失ってしまった、私たちが宗教を理性から切り離して治外法権に置いたため、宗教は無法地帯と化してしまった、ということです。
私たちが宗教を「個人の内面の問題」としていかなる迷信も許容してきたからこそ、いかなる科学とも矛盾するオウム真理教もまた存在することができたのです。
長々とお話ししてきましたが、「信じる」ことを個人の内面に限定し、理性の射程から除外することは適切でない、ということはお分かり頂けると思います。
それでは、「個人の内面の問題」「思い込み」とは違う、「信じる」とは何でしょうか。
次回は、その問題について考えてみたいと思います。
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