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師匠 それでは、キリスト者にしていただくのは誰のおかげか、知っているかい。
弟子 キリスト者になるのは、天主Deusの恩寵gratiaによります。(注1)
師 天主の恩寵によって、というのはどういう意味かな。
弟 そのあたりがよく分かりません。どうか教えてください。
師 天主の恩寵によってというのは、自分自身や親や被造物の力によってではなく、ただ天主の愛により主イエズス・キリストの功徳meritumを通じて、キリスト者になるということだよ。
弟 キリスト者にしていただくと、どのような地位が与えられるのですか。
師 天主の養子、天国の遺産を相続する身分となる。というのも、洗礼を受ける人々にこの地位を与えようという主のご意向があるんだ。(注2)
弟 それでは、キリスト者でない者はどうなりますか。
師 洗礼を受けていないから、天主の養子とさせてもらえず、天国の遺産を受けることはできないんだ。(注3)
弟 キリスト者とはどういうものですか。
師 主イエズス・キリストの教えを、心の中で信じるだけでなく、言葉と行いで表す人のことだよ。(注4)
弟 心の中で信じ、言葉と行いで表すというのはどういう意味ですか。
師 キリスト者は、主の教えを心から信じなければならないだけでなく、必要な時とあれば殺されるとしても、言葉と行いで信仰を表明する覚悟を持つべきなんだ。(注5)
注1 信仰は天主の恩寵による
「信仰の同意は決して魂の盲目的な動きではない。しかし、真理に同意し、信ずることの甘美さを味わわせる聖霊の照明と勧めがなければ、誰一人として福音の教えに同意することはできず救われることもない」(第1バチカン公会議「Dei Filius」1870年、DS.3010)
注2 洗礼によって救われるのは天主の意向
「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ28・19-20)
「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる」(マルコ16・16)
秘跡とはキリストによって制定された、天主の恩寵をもたらす可視的な儀式。洗礼とは7つの秘跡のひとつ。聖三位一体の名において志願者の額に水を三度かける。これによって受洗者の原罪およびそれまでに犯した全ての罪(自罪)とその罰が赦され、救いの保証が与えられる。なお、洗礼は受洗者の霊魂に不解消の霊印を刻むものであり、繰り返し受けることはできない。(洗礼や罪については本文の後の章で詳述されるので、そちらを参照のこと)
注3 洗礼と救い
「水と霊によって生れぬ者は天の国に入れぬ」(ヨハネ3・5)
『どちりな・きりしたん』の記述は、一般論としては正しいが、誤解を招きかねない表現であろう。
キリスト教において、「カトリック教会の外に救いなしExtra Ecclesiam nulla salus」は変更不可能の教義であり絶対の真理であるが、それは「受洗して公的にカトリック信徒となった者以外はみな地獄落ち」という意味ではない。救いとはカトリック教会が伝えるキリストによる唯一の救いのみであり、信者であるか否かを問わず、すべての人にとって真の救いはカトリック的なものである、教会という枠組みの中で救われる、という意味である。
なお、秘跡としての(水の)洗礼のほかに、「血の洗礼」と、「望みの洗礼」と呼ばれるものがある。
「血の洗礼」とは、まだ洗礼を受けていなくとも、キリスト教信仰のゆえに殺される者は救われるという意味であり、「望みの洗礼」とは、救いのために必要な要件を満たして生き、受洗を望みながらも果たせないままに死ぬ者は救われるという意味である。
また、「本人の側に落ち度がなくキリスト教を知る機会がないままに、天主に対して誠実に正しく生きた者もまた救われる」というのがカトリック教理であり(検邪聖省の1949年の書簡や第2バチカン公会議『教会憲章』16参照)、これも広義の「望みの洗礼」と解してよいだろう。
注4 キリスト者とは内心で信じるだけでなく、信仰を言葉と行いで表す者のこと
「人は心で信じて義とせられ、ことばで宣言して救いをうける」(ローマ10・10)
「信仰があると自称しても行いがなかったら何の役にたとうか」(ヤコボ2・14)
「『私は主を知っている』といいながらおきてを守らぬ人は偽り者であって、真理は彼の中にはない(1ヨハネ2・4)
日本では信仰は「個人の内面の問題」と捉えられがちだが、正統的なキリスト教においては全人格的な営為を指す。従って、信仰を持っていても(教義を真理として承認していても)、外的にその信条に反し愛にもとる言動をなすことは自己矛盾であり忌避される。
聖書は、行いを伴う信仰を「生きた信仰」、行いを伴わない信仰を「死んだ信仰」と呼んでいる(ヤコボ2・17、2・26、黙示録3・1-2)。
注5 殉教の覚悟
「だれがキリストの愛から私たちを離れさせえよう。艱難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。・・・だがすべてこれらのことに会っても、私たちを愛されたお方によって、私たちは勝ってなお余りがある」(ローマ8・35-37)
キリシタン禁令下の我が国では「踏絵」なる制度が行われ、多くのカトリック信徒が聖画を踏みつけることを拒み、残虐な拷問を受けて殺害された。信仰を「個人の内面の問題」と思い込んでいる者にとっては、これは理解しがたいことであろう。内心の信仰を守りながら外面的に踏絵を踏んでみせさえすれば、生命を奪われることはないのである。しかし、前注で述べた通り内心の信条と外的行為は不可分であるから、信仰を持ちつつ行動でそれを否認することは耐え難い自家撞着である。
信仰のゆえに殺害されることは、換言すれば、愛のゆえに天主に自分の生命をも捧げるということであるから、最高に名誉なこととされる。
なお殉教を一種の自殺ではないかと考える者がいるが、全くの見当違いと言うしかない。チェスタトンの表現を借りれば、自殺者はいかなるものも愛しておらず(自らの死によってすべてのものを失うことを惜しまない)、世界への侮蔑や憎しみ、あるいは逃避のために自らを殺すのであるが、殉教者は自分以外のものを愛するがゆえに自分の生命が犠牲となることを厭わないのであり、両者はその根本において対極にある。
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