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弟子 キリスト者のしるしは何ですか。
師匠 聖なる十字架のしるしだよ。
弟 それはどういうわけですか。
師 私たちの主イエズス・キリストは、十字架の上で私たちを自由にしてくださったからだ。だから、キリスト者は皆、私たちの光明である主イエズス・キリストの尊い十字架に対して、心を尽くして信心を持つことが大切なんだ(注1)。私たちを罪から解放するために、その十字架につけられることを主はお望みになったのだから。
弟 自由にしてくださったというのは、どういう意味ですか。
師 私たちが先祖代々、悪魔の支配下におかれていたのを解放してくださったということだ。(注2)
弟 悪魔の支配下というのは、どういうことですか。
師 悪魔と、私たち自身の罪との、奴隷である、ということだ。主のみ言葉に、「罪を犯す者は悪魔の奴隷である」というものがある(注3)。だから、人がもし大罪peccatum mortaleを犯したなら、悪魔がその人の支配権を握ることになり、その奴隷になるということだね。
これに対して、主が十字架につけられるというご生涯をもって制定された洗礼を受け、また改悛の秘跡(注4)を受けるなら、主イエズス・キリストは恩寵gratiaを降してその人のすべての罪を赦してくださるんだ。それで、主は十字架の功徳meritumによって、悪魔に囚われていた私たちを贖ってくださった、というわけだ。
奴隷に落とされていた人を贖って自由の身にすることは、本当に深い恩義だよね。それにまた、自分を奴隷にした者の恐ろしさを思い知れば、贖われた恩義も一層よくわかるというものだ。奴隷だったときの主人が冷酷な扱いであったほど、そこから贖われた時の恩も深くなるだろう。だから、主イエズス・キリストが、恩寵をもって悪魔の手から罪人を取り返して救ってくださったという恩義は、どれくらい深いことだろうか。
注1 聖十字架の崇敬
十字架は古代の処刑具だが、イエズス・キリストが十字架上で人類の贖いのいけにえとなり救済をもたらしたことから、キリスト者にとって犠牲を奉献する祭壇、また死に対する勝利を意味するようになった。教会には磔にされたキリスト(磔刑像)のついた十字架が掲げられ尊重される。
なお、一部の宗派(プロテスタント諸教団)では磔刑像を偶像礼拝だとして忌避し単なる二本の棒の十字架を用いるが、それが悪意によるのでなければ単なる無知による誤解であることは明らかである。
「聖十字架の像・・・を崇敬する事は、理性と古い伝承に従ったことであり、ふさわしいことである。この崇敬は、原型となったものに向けられているからである。したがって、イエズス・キリストの聖画像を尊敬しない者は、父の栄光とともに栄光を受け、聖人たちに栄光を与えるために主が再臨する時に、その顔を見ず、主との交わりと光とを受けないであろう」(第4コンスタンチノープル公会議、870年、DS.654-655)
注2 十字架上の犠牲による勝利
「我々の天主にして主なるキリストは、十字架の祭壇の上で死に、一度で永久に父なる天主に自分を献げて、救いの業を完成した」(トリエント公会議、1562年、DS.1740)
人祖に由来する原罪により、天国の門は人間に対して閉ざされていたのであるが、キリストの十字架上の犠牲により、天国は再び開かれた。人祖の堕罪に成功したことに始まる悪魔の人類に対する勝利は、キリストによって決定的に覆された。
注3 罪を犯す者は悪魔の奴隷
「罪を犯す者は罪の奴隷である」(ヨハネ8・34)。
「神とマンモンとにともに仕えることはできぬ」(マテオ6・24)とあるように、天主に背いて罪を犯す者は天主に属する者と見なされない。
注4 改悛の秘跡
「あなたはペトロである。私はこの岩の上に私の教会を立てよう。地獄の門もこれに勝てぬ。私はあなたに天の国のかぎを与える。あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、地上で解くものはみな天でも解かれる」(マテオ16・18-19)
「あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさぬ人はゆるされない」(ヨハネ20・23)
「改悛の秘跡」(「告解」と通称、現在は「ゆるしの秘跡」ともいう)は、キリストが制定した7つの秘跡の一つ。主が使徒(及びその後継者)に与えた権能により、罪を告白する者に対し司祭が赦罪の言葉を唱えることにより、告白者の罪が赦される。洗礼の秘跡によって原罪とすべての自罪及びその罰が拭われるが、受洗後に犯した罪についてはこの秘跡によって天主の子たる資格に復帰できる。
詳しくは後の章で述べられるので、そちらを参照のこと。
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