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しばしば誤解されているが、キリスト教において死刑はそれ自体で「天主に反することがら」つまり本質的な意味での罪、ではない。
もちろん「汝殺すなかれ」とある通りで殺人が許されているわけではないけれども、たとえば正当防衛がそうであるように、自分自身を犠牲にしてまで他人の悪行を甘んじて受けよと言っているわけではない。
同じことは世俗国家にも言えて、正当な秩序を維持するために罪人を処罰する(最悪の場合には死刑に処する)ことは、人の幸福を守るためにも「あり得る」(必須かどうかは別だが)ことと考えられてきた。
とはいえカトリック教会は現在、諸国家に死刑を行わないよう呼びかけている。
最初に述べたように、それが本質的に罪(天主に背くことがら)だからではない。
(つまり、死刑がそれ自体で例外なくキリスト教信仰に反すると主張する者は間違っている)。
それでは、なぜだろうか。
私が思うに、
教会が死刑制度に拒否感を示しているのは、社会が以前よりも人道的になったからではなく
むしろその逆で、社会が非人道的になり愛徳が失われたからではないだろうか。
G.K.チェスタトンが書いていたと記憶しているが、
中世には少なくとも「正義」と「愛徳(日本的に言うと慈悲)」を同居させる心の広さがあったが
現代では正義と愛とは対立概念のように扱われている、と。
実際に某国では、死刑を司る大臣が「死刑判決を受けた者はオートマチックに処刑されるのがよい」という趣旨の発言をしたりしていて、そこには愛徳つまり「罪を憎んで人を憎まず」という感覚など微塵もないことが露呈しているわけである。
「現代は人道的な社会だから、死刑のような前時代的な悪習は認められない」と考える啓蒙主義的な(笑)論者には気の毒であるが、社会が不可逆的に善くなっていくなどという仮説が荒唐無稽である以上、そのような欺瞞は通用するまい。
むしろ、社会が(可逆的、不可逆的であるかはいざ知らず)悪化しているのが現実だと考える方が当を得ているように思われる。
なお誤解のないように言っておくが、
私は中世に執行された死刑が全て正義と愛徳に基づいていたなどと言うつもりは全くないし、
また、このブログは死刑制度について賛成・反対のいずれの意見をも表明するものではない。
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