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教皇儀典長マリーニ師は『オッセルヴァトーレ・ロマーノ』紙のインタビューで、
聖体拝領の際にひざまずき、舌で聖体を受けることを強く推奨し、
これは至聖なる秘跡に対して現在欠落している崇敬と礼拝を表現する行為であり、
教皇聖下ご自身が望んでおられることでもあると指摘した。
教皇ベネディクト16世は、ひざまずき口で受けようとする信者に対して聖体を授けている。
この方法がバチカンでの教皇の典礼で規範化されるのかという質問に対しマリーニ師は、
教皇聖下自身の強い意向によりそうなるだろうとの見解を示した。
なお、聖体拝領の際に(手ではなく)舌で聖体を受けることは全教会共通のルールである。
手で受けるのは、司教協議会の求めに対して教皇が許可を与えることによって初めて
認められる、例外的な行為にすぎない。
http://www.cwnews.com/news/viewstory.cfm?recnum=59335
http://www.catholicnews.com/data/stories/cns/0803381.htm
もう今時、「口ではなく手で聖体を受けるのが第2バチカン公会議の方針」などと
事実に反することを主張する人はいないと思いますが・・・。
今まで司教等の許可が必要とされた公会議前の典礼を完全自由化した、昨年の
自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」といい、近年の聖庁は弛緩・逸脱した
新典礼で失われてしまった「聖なるものの感覚」を取り戻すよう努めているようです。
このブログをお読みになっている信者さんの中にも立ったまま手で受けておられる方も
多いとは思いますが、ひざまずいて口で受けるようになさってはいかがでしょうか。
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愛のゆえに助言申し上げますが、「外的しるし」に対する貴方の見方は少し危ういのでは? 天主は全身全霊で礼拝すべきであり、霊が肉に優越するからといって身体的な礼拝を軽視するのは間違いです。それゆえ、ピオ12世『Mediator Dei』にも「礼拝は外的なものでもなければならない」とあります。
なおヨハネ22世『In agro dominico』では、「神は外的行為を命じていない」「外的行為はそれ自体では善でも完全でもない」「人は外的行為ではなく内的行為で善人となる」という諸命題が、「耳障り、軽率、異端の疑いがあるもの」として排斥されています(DS966-969)。
老婆心よりご参考まで。
[ カトリック的。 ]
2008/7/3(木) 午後 8:15
「私達は一日2回ご聖体拝領をします。第1は朝のミサでします。第2は死にゆく人にふれることでします。現代の矛盾は第1のご聖体拝領をする人が第2のご聖体拝領を知らず、第2のご聖体拝領を知る人が第1のミサのご聖体拝領を知らないことです。(マザーテレサ)」
この矛盾をどのように解決するかが、事実問題か権利問題かとか,口でするか手でするかなどをはるかに超えた私たちの真に議論すべき実践的課題かと思います。
[ pinpinkorori ]
2008/7/3(木) 午後 11:34
agnus_d_virさん。あなたに感謝します。(レス不要)
[ ヨゼフ・ジェンマ ]
2008/7/12(土) 午前 1:50
内的外的というのは、一方だけを強調することは間違いです。両方が統一されて本当の使い方になります。
内的論理化(充実化)をすすめると、外部の論理化(充実化)へと向い、外部の論理化がおわると内部の論理化へむかうという内的外的の相互運動で統一されます。両項のうちの「外的しるし」はその一断面にすぎません。外的なものを内的充実へと橋渡す時、それを「耳障り、軽率、異端の疑いがあるもの」として一面的に切ることは部分的で全体である真理からとおく、「道、真理 命」であるキリストからも遠いでしょう。
[ pinpinkorori ]
2008/7/13(日) 午後 3:58
agnus_d_virさんへ
『ローマ・ミサ典礼書の総則』や『贖いの秘跡』を私はとうに読んでいます。不思議でならないのは「口か手か」とかいう話は昔もさんざん議論されて両方可で終わっており、なぜ今更問題にされるかということです。ヨゼフ・ジェンマ さんのように受洗が2年前ですから昔の議論を知らないので仕方がないかもしれませんが、皆さん大事なことを忘れていないでしょうか。プロテスタントでは洗礼の時に教会を批判しないようにと約束します。カトリックではそれと同じく「悪魔と悪魔の行為を捨てるように」と洗礼のときに誓います。普通の受洗者は現行教会を積極的に肯定します。洗礼時、教会を少なくとも否定も肯定もしないでただ受け入れることが最低の条件としてあったはずです。現行の教会に間違いはあるでしょう。けれでもそれにこだわり(罪ですよ)避難や批判を続けることは、教会を肯定も否定もせずただそのまま受容する洗礼の最低条件の一線を超えています。どうか洗礼のときの誓いを思い出してください。現行教会に亀裂をいれるような不毛で労力の無駄なこだわりをやめていただきたいとはっきり思います。
[ pinpinkorori ]
2008/7/13(日) 午後 4:54
つい最近まですんでいたフィリピンでは、舌で受ける人が多いです。ここ台湾では手が多いかな?個人的には「舌派」です。agnusさん、お久しぶりです!最近ブログ復活しました。これからもよろしくお願いします!
2009/1/15(木) 午後 4:53
お久しぶりです! こちらこそ、引き続きよろしくお願いします。
新しい典礼秘跡聖省長官も、就任早々に跪いて舌で拝領することを力強い言葉で推奨していましたね。
[ カトリック的。 ]
2009/1/22(木) 午後 9:44
聖体拝領についてググっていたら、流れ着きました。
舌で受けるのが基本なのかなとは思っていましたが、修道士から興味深い考えを聞きました。
そもそも最後の晩餐では、イエス様はパンを割って弟子に手渡された。だから、手で頂くのはイエス様に戻ったのだ。と。
どちらで頂くにしても、尊い大切なものであるということは、常に意識しておきたいです。
2010/4/28(水) 午前 1:32
うーん、聖体拝領、ひざまずき 舌で受けたことは ありませんねえ。所属教会の主任司祭も そういうことは 言わないし。
しかし、いずれは そういうふうになるのかも しれませんね。
[ ウォルポール ]
2010/9/5(日) 午前 5:28
マザーテレサの霊性に対する考え方を引用するならば、御聖体に対する信心も神様のお恵みだと思えます。回心できるというのが恩寵によるものだということと同じく。
スレ主様と同様に、教皇様が現代のペトロでいらっしゃるので、彼の子どものように従順にありたいと願うばかりです。初代教会の聖人が「その微細たる一片を紛失するならば、それはあなたの四肢のひとつを失うに等しい」から大いなる配慮をすべきだと書かれていますが、時代とともに最良を求めてゆくべきことだとも思います。
「主よ、あなたに背いたことがありましょうか?」と尋ねたとき、私たちの神様に「あなたは、私が渇いているときに飲み物をくれず、飢えているときに食物をくれず、寒さの中でも・・・」と仰らせることのないように。
マザーテレサの第1と第2ですが、神様を知っていると言う者が最も貧しい方たちの中のキリストを愛さず目を向けず、その逆もまたしかり。
教皇様も同様です。いえ、司牧の最高責任者でいらっしゃる故に、どれほど苦しんでおられるでしょう!なんと敵の多いことでしょう!!もちろん、バチカンの中にも・・・。ファティマの預言を思い起こします。
[ lightpurple ]
2010/9/24(金) 午前 2:48
しん
[ loto ]
2011/12/24(土) 午後 6:42
カソリックで洗礼を昨年似、洗礼を受けましたが、
神父様が、代わり、
聖体拝領を、神父様と、信者で、行うことになりました
こんなことが、あるのでしょうか?
[ アダム ]
2011/12/24(土) 午後 6:52
職制が明確で分業がなされているキャソリックでは通常あり得ませんね。
一見信者に見える、助祭なんて位階もありますけど。
[ ひかる ]
2012/2/27(月) 午後 11:23
St. Agnes Church, New York in 1989,Fr. George Rutler とのインタビューの中でマザーテレサはこう答えました:
『世界の何処にいても、私を最も悲しんでいるのは人々が手による聖体拝領をするのを見かけること。』Mother Teresa
「さらに、シスター達が舌に御聖体拝領を受けることは我々の修道会と私の願いの習慣である、そしてそれは、私の知る限りでは、彼らはこれを何処でも実施している。」(India,1995)
[ cre*o*7777 ]
2012/6/5(火) 午前 8:11
世界の何処にいても、私を最も悲しんでいるのは人々が手による聖体拝領をするのを見かけること。 Mother Teresa
マザー・テレサはこのようにおっしゃったのですね!
わたしも洗礼の時からできる限り、ほとんど舌の上に拝領して
います
最近、ひざまずいて拝領するようになったのですが、立ってください
と言われたこともあります
2012/7/22(日) 午前 2:15
+主の平安
始めてご訪問させて頂きます。
お恥ずかしながら、洗礼を受けて20数年たつのに、2013年になって、このことを初めて知りました。
バチカンでのミサでは、手による聖体拝領はできないのは、動画などでわかりましたが、日本では、大切なものを手で受ける習慣があるためとか。それで日本は1970年にローマ教皇庁の許可を受けて手での拝領が認可になったいきさつがネットに出ておりました。
2013/10/25(金) 午前 9:45
この話題は強い関心を呼んでいるようですね。
個人的な意見ですが、日本では大切なものを立ったまま受けるという伝統なんてあったのでしょうか。どうしても日本式にいきたいのであれば、聖体拝領の時には正座して押しいただくのが筋ではないかと思うのですが。
そもそも、聖体拝領は、神が自らパンとなって信者に与えられるという唯一無二の神秘です。神ならぬ「もの」を受け取るときの習慣をそのまま適用しようというのも、何か違うように思います。
最大級の敬意を示すために、またむやみに手で触れて落としたり手にかけらが残ったりという危険を避けるために、信者は口で受けるようになっていったわけです。この崇敬と畏怖の感覚は、もっと大事にされてもいいんじゃないかと私なんかは思っているのですが…。
[ カトリック的。 ]
2013/12/26(木) 午後 8:14
聖体拝領は口でも手でも両方可で結論が出ていることですが、
非常に気持ちが悪いのは、
口での拝領を主張する人が度を越した強い執着を持っていることです。
このような人は手で受ける人にはほとんど見当たりません。
彼らは「口での拝領だけが正しく、手で受けるのは汚聖だ」と
主張することもしばしばあり、
教会内に分裂を持ち込み、他者を傷つけているのは、
口での拝領を主張する人が圧倒的に多いのです。
「教会に平和と一致をお与えください」
のはずなのに、
彼らは自分のスタイルを押し通すことが最優先になっているのです。
そして、彼らのその人間性(あーゆー人になりたくない!)によって、
ますます手で拝領派が増えているのが現状でもあります。
なお、口での拝領には以下の問題が起きています。
[ 48音 ]
2014/6/15(日) 午前 1:19
・聖体を落とす事故
手で受ける人はパテナはまず必要ないのですが、
口で受ける人はパテナを添えていないと御聖体を落とす事故が年に数回あります。
・拝領に掛かる時間
口で受ける人は、ほぼ間違いなく跪いて受けるので、時間がかかります。
高齢者になりますと、さらに時間がかかったり、当人も苦しそうだったりします。
また、その動作によって転倒や衝突事故も起きています。
・タイミングが合わない事故
口で受ける前に「アーメン」という人がいます。
このため、口を開けて待っているのかと思いきや、アーメンと言い出して、
口が動き、聖体を落とす事故が起きています。
・手の位置による問題
口で拝領するときに、手を口の前で合わせる人がいます。
このため、パテナが口の下に用意できず、御聖体落下事故になることがあります。
[ 48音 ]
2014/6/15(日) 午前 1:21
・舌が動くことによるトラブル
拝領するときに舌が動く人がとても多いです。
そのため司祭の指に唾や口紅が付くことが少なくありません。
信徒同士が司祭の指を通して間接キスをしているという現実を私は毎週のように見ています。
また、一度司祭の指に唾が付きますと、それ以降の御聖体には菌等が付着し、
病気の感染の原因になります。
・口臭
臭いです。特に外でタバコを吸って来た人は最悪です。周りにも臭ってミサが台無しです。
本人は気が付いていませんが。
[ 48音 ]
2014/6/15(日) 午前 1:21