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先日ネットで興味深い記事が目に留まった。
ある仏教研究家が、「請求書の祈り」「領収書の祈り」という区別を提唱しているそうだ。
私の読んだ記事ではそれを引用して、「これだけ賽銭張り込むんだから御利益ください」という<請求書の>祈りから、「一年無事に過ごせました、お蔭様」という<領収書の>祈りへのシフトを呼びかけていた。
くださいくださいと求めるばかりでなく、実は私たちにはもう既に沢山のお恵みが与えられていることに気付こうよ、という訳である。
論旨自体はごもっともな話である。ただ私は同時に違和感も覚えた。
「何かを求める祈り」と「もらって感謝する祈り」…、どちらも大切だし、人間に不可欠な祈りだ。
しかし祈りとはただそれだけのものだろうか。何か足りないのではないだろうか?
私見だが、キリスト教の祈りは「賛美」「感謝」「祈願」の三つに分類される。
このうち「祈願」は<請求書>の、「感謝」は<領収書>の祈りに相当するだろう。
だが祈りの根本にあるのは「賛美」だ。
賛美とは、自分の利得とは無関係に、神をそれ自体の善さ、偉大さの故に讃えることである。
その極致が、天上で神を仰ぐ天使達の叫び、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな!」であろう。
カトリックの祈祷文も多くの場合、1.神を讃えて礼拝し、2.恩恵に感謝し、3.救霊のための助力を乞い求める、という構成になっている。
わかりいいようにサッカー観戦に例えてみよう。
ひいきのチーム、あるいはトトカルチョで賭けたチームに「勝ってくれ!」と願うのが「祈願」、試合の結果トトで儲かり嬉しい、あるいは「感動をありがとう」というのが「感謝」である。
それらに対して、「なんと素晴らしいプレーだ!」と、選手や技術そのものを賞賛するのが「賛美」ということだ。
もちろん仏教にも「賛美」という概念は存在していると思うが、上述のネットの記事を見る限りでは、少なくとも現代日本の信仰実践は、「与えてほしい/もらって嬉しい」という、つまるところ自己の利得が中心的主題のようだ。
実際に存在している実体を基盤に置かない宗教の、あるいは神なき霊性の、限界ということだろうか。
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記事をよんで天理教は?と考えてみた
まずは日々の御守護(生かされてること)の感謝
そして人のたすかりを願います
自分のたすかりを願っているのが悪いわけじゃないけど自分のことを考えている間は本当のたすかりじゃないから
もちろん理だてっていうお供え(例えばお金)もするし心定め(何かをする行為)もします
でも本来日本の神様は自然界全体が神様であって御利益信仰はあと付けだったような…
2012/1/29(日) 午後 9:54
こんにちは
仏教にも「讃仏」という概念はありますし、そのための祈りも存在します
ですが、今の日本で受けているのは、そういう宗教色の少ない、哲学としての仏教なのですね
だから、元記事を読んでおりませんので憶測ですが、その仏教研究家の方は「讃仏」というどっぷり宗教的な概念は省いて書かれたのかもしれませんね
初詣も、そこでご利益を願うのも本来の仏教ではないですね
神なき霊性の限界、というより、現代日本人の宗教性の限界ではないか、という気がします
通りすがり失礼いたしました。
[ 流 ]
2014/1/5(日) 午後 2:47
コメントありがとうございます。
仏教にも賛美の祈りがあるのですね。
私としては、宗教色を排した仏教が流行る現代日本の貧弱な宗教性、その原因の一つが、信仰対象の実在性を欠く「神なき霊性」によるものではないか(そしてもう一つの原因はプロテスタンティズムによる「信仰の私事化」ではないか)、と考えています。
この記事の続編のようなものもありますので、ご関心のある向きはどうぞ。
知られざる神に祈る http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/63250275.html
[ カトリック的。 ]
2014/1/7(火) 午後 6:15