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小説や漫画で登場人物に神父やシスターがいると、必ずと言っていいほど
出てくるのが「私は神に仕える身ですから」という台詞。
何か悪いことや色恋沙汰に際して、自分にはできないと断る決まり文句だ。
…ありえない。絶対にありえない。いやしくもカトリックたる者、そんな言葉を
口の端に上らせるわけがない。
何が変なのか、順を追って見てみよう。
悪事を働いていい人間などない
まず、司祭(神父)・修道者(ブラザー/シスター)と平信徒とで道徳律が違う
などという発想が事実に反している。
その存在を神に負うている者として、人間は皆が例外なく「神に仕える身」である。
聖職者であろうがなかろうが、それどころかキリスト者であろうがなかろうが、
やっていいこと悪いことは万人共通だ。
盗みも人殺しも、配偶者以外の異性と関係を持つことも、悪いことは悪いこと、
誰にだって許されない。当たり前の話だ。
何が善くて何が悪いかを人に教えるべき聖職者が、自分では行わない悪事を
一般人は行っても許されるかのように言うはずがないのである。
人に仕える身分
次に、司祭は、神に仕えるというよりむしろ人々に仕える身分というべきである。
司祭の存在意義は、秘跡を執行して人々が神の恩恵を受けられるようにすること
にある。
聖職位階の頂点にいる教皇の称号が「神のしもべたちのしもべ」である
という事実は、キリスト教における聖職者の位置付けをよく示している。
一方、修道者というのは「仕えられるためではなく、仕えるために来た」キリストの
模範に倣い完徳を目指す人々のことだ。各修道会の特色に応じて、或は祈りにより、
或は外的活動により、神と隣人への愛を実践している。
ルールは「不自由」なのか?
最後に、「神に仕える身だから〜できない」という表現が(実際にはそんなことを
言う信者はいないのに)広まっている背景には、信仰というものが何か人を抑圧
するもの、あれは駄目これは駄目と禁止する不自由なものというイメージが蔓延
していることがあるように思う。
しかし、キリスト教で実のところ何がどう禁じられているか、ご存知か?
神父だって酒もタバコも全然オッケーなんだぜ。
そもそも、決まりごとが存在することをもって不自由だ抑圧的だと決め付けるのは
早計だ。
スポーツもゲームも、ルールがあるからこそ面白い。法律が存在せず何をしても
よい世界なんて、想像するだけでも恐ろしい。
それに、何かを制限されているように見えて、実はより多くのものを手に入れて
いたりもするのだ。
司祭は結婚しないが、それは家庭を持つことが「できない」とか「諦めている」の
ではない。むしろ、結婚しないことにより全ての信者の父となり得るという
積極的な生き方なのだ。
だからこそ司祭は「ファーザー」、「神父(霊的な父の意)」と呼ばれるのである。
以上、お分かりいただけただろうか?
これからカトリック信者の出て来るお話を書こうという人は是非気をつけていただいて、
くれぐれも「神に仕える身」などというありえない台詞をでっちあげないようにして
いただきたいものである。
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