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以前、祈りには「賛美」「感謝」「祈願」の三種類があるのではないかと書いた。
それに関連して、
くださいくださいと求める(<請求書の祈り>=祈願)ばかりなのを改めて、実はもう既に多くの恵みをいただいていることに気づき、ありがたく思う(<領収書の祈り>=感謝)べきだ
という言説は、間違いではないけれども、根本に「賛美」がなければやっぱり、自分の利益が欲しい、利益を得てうれしい、という損得勘定のレベルにとどまってしまう、とも述べた。
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/62479692.html
人間は<請求書的>祈りをすべきである
ただし、誤解のないように言っておくが、「祈願」や「感謝」それ自体が損得勘定なのではないし、祈願が不必要だというのでもない。
上述の記事でも書いたように、どちらも人間にとって不可欠の、大切なものだ。
というのも、人間は明らかに完全無欠の存在ではない。足りないもの、できないことばかりだ。また、自分で完全な存在になることもできない。完全になろうと努めれば努めるほど、自分がいかに完全性から程遠いかがわかるというものだ。
したがって人間は完全に近づくために、より高次のものに助けられ、導かれる必要がある。
ゆえに、そのような助力を祈り求めるのは当然であるし、むしろ積極的に祈り求めなければならない。
だからおわかりいただけるだろう。「私は神仏にはすがらない」「宗教に頼るような弱い人間ではない」なんて言っちゃう人が時々いるが、それは甘やかされた若造が「俺は誰の世話にもなったことはない、一人で生きていける」とほざいているのと何ら変わりはない。不遜というかダサいというか・・・頭悪そうですネ。
だいたい、当ブログで何度も書いているとおり、信仰とはある事柄が真であると承認するという理知的なもの(地球が丸いと信ずることと同様)であって、そもそも「すがる」「頼る」ような類のものではないのだが。
なぜ日本には<請求書的祈り>と<領収書的祈り>の2種類しかないのか
さて一方で、現代日本の宗教行動(初詣など)において「賛美」が欠落しているのは、無理もないことだとも思うのだ。「祈願」や「感謝」は特に意識しなくとも行い得るが、「賛美」にはその対象が必要だからだ。
以前の記事で、祈りの三類型をサッカーで説明した。チームの勝利を願ったり勝利を喜んだりすることは試合を見なくたってできるが、選手や戦術を評価しようと思ったら実際のプレーを見ることが絶対に必要だ。
さて、それでは、神社仏閣に参拝する人達が神仏を意識しているだろうか? そこに何の仏が、何のカミが祀られているかも知らずに拝んでいる人も多いのではないか。
それだけではない。そもそも、仏教の如来や菩薩が宇宙のどこかに実在すると本気で信じている人がいるだろうか。神道でカミとして祀られている有象無象(天体・自然現象・動植物・はるか昔に死んだ人物等々)に、人間の願望を知覚する能力があると本気で信じている人がいるだろうか。
恐らくほとんどの人が、「いや、そのような<お話>を信じているのではなく、事物の裏におわします人知を超えた何ものかを拝んでいるのだ」と答えるはずだ。
そうなのだ。超越的なるもの(事物の背後におわします何ものか)に応答する、つまり「祈る」というのは、人間本性に根ざした根源的な行為だ。
しかし、日本の宗教は我々が通常抱いている世界観や現代科学と真っ向から対立しているように思われる。
したがって、他に道理にかなった信仰があることを知らないから、あるいは、自分の日常生活と宗教行動との矛盾に無自覚であるため、「祈る」という本性的な行為に際して既知の宗教の枠組みをとりあえず借りている、ということではないだろうか。
まさに「知られざる神を拝んでいる」(使徒行録17:23)のだが、何しろ「知らない」のだから、その神が具体的にどうすごいのかなんて語りようがないのである。
最後に繰り返しになるが、お恵みをくださいという祈り(<請求書の祈り>=祈願)と、お恵みをありがとうという祈り(<領収書の祈り>=感謝)だけでは、結局のところ自己の利得中心の発想から離れていない。とはいえ、賛美の祈りが日本で行われていないのは無理からぬことでもある。
「賛美」があれば「祈願」や「感謝」が不要だというのではない。むしろ、「賛美」しないのは単なる無知によるものだが、「感謝」しないのは恩知らずというべきであり、「祈願」しないにいたっては傲岸不遜なDQN野郎というべきであろう。
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日本人をよくいいあてた記事ですね
2013/2/26(火) 午前 6:36