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カトリック的。
信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

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教皇(ローマ法王)ベネディクト16世が退位表明後はじめての一般謁見で、集まった信徒に「私のため、次期教皇のため、そして教会のために祈り続けてください」と述べたことが、一部のネットユーザーに驚きをもって受け止められたようだ。

Yahoo! ニュースのコメント欄には、

> 「私のために祈り続けて」とはどう言う神経なのだろうか。私の感覚では、どう考えても図々しいとしか思えないが(後略)

> 日本の天皇は、国民と国家のために祈るのが仕事で、決して、自分のために祈れなんて言わなかったのに(後略)


といった批判的(?)なコメントが並んだ。

それらを見て筆者の頭に浮かんだのは、「この人たちは、誰かのために祈らないのだろうか?」という疑問だった。
実のところ、筆者(そして多くのキリスト者)にとり「私のために祈ってください」というのは日常的に口にする表現であるため、そのような否定的な反応があったことは意外であり興味深い。
どうして違和感を持つ人が出てくるのか、考えてみた。


宗教が日常生活と乖離


まず言えることは、多くの日本人にとり宗教や信仰というものが日常生活で馴染みのないものだということである。これにはプロテスタント教、無神論、日本の伝統宗教という三つの宗教が影響していると考えられる。

明治期以降に米英から流入したプロテスタント教は、今なお日本人のキリスト教観のみならず日本人の宗教観に大きな影響を及ぼしているが、その特徴は、信仰を個人の主観(思い込みや感じ方)の領域に追いやり、客観的な検証の対象から外してしまったことである。
「信仰の私事化」と呼ばれるが、宗教が人の外にあるのではなく人の中にある、個人の感覚の問題だとなれば、社会生活(他者との関わり)の中に信仰実践の入る余地はない。

また、これはプロテスタント教による信仰の私事化とも関連するのだが、現代日本では無神論という非科学的な教義(ドグマ)が支配的だ。そのため、宗教と科学、信仰と理性が対立概念であるという間違った思い込みが蔓延している。
すべての信仰は本質的に道理に反すると信じこんでいる人にとって、宗教はあくまで伝統芸能や慣習、しきたりとしてのみ存在を許されるに過ぎない。自身の毎日の生活に宗教が登場するなどあり得ないのである。

それから実際問題として、日本の伝統宗教は明白に非科学的であるため、深刻な自己矛盾を抱えなければそのような信仰の実践と現代の生活とを両立させられない。
そのため多くの人が、迷信への愛着を正当化しようとして「信仰は個人のこころの問題」というプロテスタント流の論法に逃げるか、「宗教は<すべて>非科学的」と論理を飛躍させて無神論というこれまた非科学的な教義の盲目的な信奉者になっているのが実情である。


祈っても効果がないとされた人々


このように、日本では宗教が実生活から乖離している。その結果として、祈ることは特殊な人々(宗教者など)の「仕事」と見なされるようになり、一般人の日常からは誰かのために祈るという習慣が失われたものと考えられる。

また、もしも信仰が個人の主観に属するものだとするならば、祈るという行為はつまるところ当人の自己満足でしかない。となれば、自分のために誰かに祈ってもらおうと思わないのは当然である。

一方、宗教団体側にとっても、祈るという行為が一般人の手から離れることは、必ずしも憂慮すべきことではなかったろう。自己満足でない祈り(外界に効果を及ぼす祈り)ができるのは職業的宗教者だけだとなれば、それだけ自分たちの権威づけになるからだ。

以上、「私のために祈ってください」という常套句に違和感を覚えてしまう背景を概観した。
しかし、このような日本の現状は、普遍的に妥当性を持つものだろうか? 最後に少しだけ、キリスト教(カトリック)の感覚を簡単に見てみることにしよう。


「祈ってください」は愛と信頼の証

すべてのキリスト者にとって祈りは日常である。神との対話はいうなれば霊魂の呼吸であり、特殊な人の特殊な「仕事」ではない。カトリック信者は日々、困難な状況下にある人のため、死者のため、為政者のため、縁ある人々のため、等々、祈っている。
だから普段から「私のためにお祈りください」「あなたのためにお祈りしていますよ」といった会話が交わされる。自分のために祈りを求めることは、相手への信頼感や親愛の情の発露なのである。

したがって、もう理解いただけると思うが、ベネディクト16世が祈りを願ったことは、信者に対する愛と信頼を示すもので、「図々しい」どころかその逆で、聖下の奥ゆかしい人柄、「謙虚さ」を証している。
聖下は、たまたま人類のために神の前で大きな責任を負う職務にあるが、自分もまた皆と同じ一人の人間であり、隣人たちの祈りによって助けてもらう必要のある存在なのだということを率直に述べているのだ。

そこで思い出されるのは8年前、教皇に選出された時の「私は主のブドウ畑の、素朴で卑小な労働者」という発言。高名な神学者でありながら、その教皇としての治世は最初から最後まで、真のキリスト教的「謙遜(へりくだり)」の精神に貫かれていたといえよう。

願わくは我らの主イエズス・キリストが、かくも偉大な教皇に豊かな報いと平安の日々とを与えたまわんことを!

「カトリック的に考えようとしてみた」書庫の記事一覧

  • 私も多くの日本人のように私のために祈るという言葉は違和感がありましたがわかりやすく解説ありがとうございます

    はなまる

    2013/3/1(金) 午後 9:30

  • 大変勉強になりました。

    私は成人洗礼組ですが、求道期間中から先祖代々カトリックという、所謂、旧信者と呼ばれる信者さん達のとの交流の中で過ごしました。
    先祖がキリシタンだというその人達のお互いに祈り合い支えあう姿を見てきました。中には家族親族でもない私のためにミサを依頼して下さってる信者さんもいて、そういう体験の積み重ねが私にカトリックへの改宗を決意させたのかなと思います。

    最近、「私のために祈って下さい」と言われると不快に思われる信者さんや「苦しみを捧げて下さい」の一点ばりで迫る信者さんに出会い、「私のために祈って下さい」は口にしては行けない言葉なのかと悩んでました。

    [ ミリア ]

    2013/4/18(木) 午後 4:54

  • 顔アイコン

    宗教はマインドコントロールの術でしかないのだが

    [ - ]

    2013/11/14(木) 午後 10:29

  • 顔アイコン

    なるほど、我々の愛国心を食い物にして数百万人の国民を死に追いやった戦中の国家神道はその好例ですね。

    [ カトリック的。 ]

    2014/1/24(金) 午後 8:21

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