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新教皇フランシスコは3月14日、システィーナ礼拝堂で教皇選出後はじめてのミサ聖祭を司式し、説教の中で
「イエズス・キリスト(への信仰)を告白するのでなければ、我々は教会ではなく慈善団体となってしまう」
と述べた。
www.news.va/en/news/pope-francis-1st-homily-full-text
聖下の出身地である中南米は、近年まで「解放の神学」が猛威をふるっていた地域である。政治運動を信仰よりも優先する思潮は誤りだ、と改めて釘を刺したものであろう。
我々は神を愛するがゆえに、神が命をかけて愛された人間をも愛するのであって、その逆ではない。
社会正義や世界平和は大切だが、それら現世的価値を至上の目的としてしまうなら、つまり、教義の問題よりも正義と平和の方が大切だと言うならば、それはキリスト者として自己矛盾であり、神よりも俗世間が大事だと言っているのに等しい。
聖下は同じ説教の中でこれを悪魔礼拝として断罪している。
日本の報道では触れられていなかったが、これに続く次のような言葉にも注目したい。
「十字架ぬきにイエズス・キリストを信じようとするならば、我々は主の弟子ではない」
「我々は十字架に釘付けにせられたキリストをのべ伝える勇気を持たねばならない」
筆者は、ここには二つのメッセージが込められていると考える。
お気楽なセンチメンタリズムではない
第一に、カトリシズムは処世訓や自己啓発のようなものではない、ということである。
キリスト教の根幹は、「我ら人類の救いのために、神が人となって苦難を受けたもうた」という驚天動地の歴史的事実に対する応答だ。
キリスト者はそれぞれ自分の十字架を担い、主イエズス・キリストのあとに従う。その道はときに険しく過酷であるが、その先には主が十字架によって勝ち得た栄光があると知っているからこそ、信者は喜びをもってこの涙の谷を旅するのである。
キリスト教の愛とゆるしを称賛する人は多いが、十字架の犠牲(いけにえ)について語る人は少ない。しかし、愛は犠牲によって証明され、罪のゆるしは十字架をとおしてもたらされる。
犠牲の観念を除去すればキリスト教は聴く者の耳に心地よく、通俗道徳として広く受け入れられるのかもしれないが、そんなものをもはやキリスト教と呼ぶことはできない。
現世での幸福や心の癒しなどは新興宗教・疑似宗教に任せ、我々は真剣な信仰の道を行くとしよう。
キリストの十字架上の死によって救われる
第二に、人類の救いはキリストの「復活」によってではなく、十字架の苦難によってもたらされた、という神学的に重要なポイントである。
復活は、キリストの神性を示すものでもあり、また十字架の犠牲によって死の支配から解放されたことの論理的帰結でもある。
一方、十字架上のキリストの最期の言葉「成し遂げられた」からもわかるように、救いは十字架上で完成されたのである。
だからこそキリスト者にとって十字架という処刑具が栄光のシンボルとされるのであり、カトリック教会に必ず磔刑像があるのもそのためである。また、ミサ聖祭は別名を「無血のいけにえ」というように、この十字架の犠牲を祭壇上に臨在させる儀式である。
ところが、近年のカトリック教会内には、このミサの価値を低下させようとする人々が存在する。彼らは、ミサとは「共同体の会食」だと主張したり、ミサが本質的に犠牲奉献であることを明示する式文を改変したりしてきた。
そのような人々にとり、究極の犠牲を表現している磔刑像は目障り以外の何物でもない。そこで躍起になって、教会の磔刑像を抽象的な図像や復活のキリスト像に置き換えたり、ただの棒だけの十字架(プロテスタントか!)に換えたりしている。
また特に日本では、磔刑像は「残酷な印象を与える」として、復活のキリスト像に替えることがままあるようだ。私たち人間の罪によってキリストの十字架という「残酷な」出来事が起き、かつその「残酷な」出来事によって人類が救われたのだから、それを隠すのは欺瞞だと思うが、その欺瞞に無自覚な教会関係者が一部に存在するのも残念ながら事実である。
新教皇への期待
新教皇は「十字架なしにキリスト教は存続し得ない」と訴えることで、キリスト教を通俗道徳に矮小化せんとする傾向や、犠牲を軽視する主張に対して警告を発するとともに、磔刑像を復活像に置き換える不適切な慣習にも歯止めをかけようとしたのではないか。そう考えたことであった。
前教皇ベネディクト16世の8年間で、教会は第二バチカン公会議後の混乱と逸脱から、正常化に向けて勇気ある一歩を踏み出した。
新教皇フランシスコがその名のとおり「教会再建」の困難な作業を継続することができるか、期待のうちに祈りつつ注目していきたい。■
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