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第2バチカン公会議(1962〜65)は一般に、カトリック教会にとって一大ターニングポイントであったと評されることが多い。
しかし前教皇ベネディクト16世は、その在位中「第2バチカン公会議を、教会の伝統の断絶と見なすべきではない」と繰り返し訴えておられた。
これは一体どういうことだろうか。
公会議から50年、現在に至るまで教会内に蔓延している弛緩した思潮を慨嘆するあまり、正統的な信者の一部は「公会議によって聖会は異端に陥った」と判断し教会を離れてしまった。
が、このように公会議を全否定して離教に走っちゃあ元も子もないぜ、というのが聖下の説くところである。
一方、聖下はいつも必ず同時に、第2バチカン公会議の信奉者に対しても同じ警告を向けておられた。
「公会議前を称揚して現在の教会を否定する者も、公会議を称揚して過去の教会を否定する者も、教会の伝統の連続性を認めないという点で同じ過ちを犯している」と。
「昔の教会はダメだった」と盲目的に決めつけ、第2バチカン公会議だけがカトリシズムの全てであるかのように論ずる輩は少なくないが、そんな風に過去を無視するのも間違っているんだぜ、というわけである。
聖下のメッセージは、次のように要約できるだろう。
「真理は永久に不変であるから、カトリック教会の教義が変わることは絶対にない。」
「第2バチカン公会議は、教会の教理伝統の連続性の中で受容されなければならない。」
したがって、もしも公会議の文言が教会の過去の教えと矛盾するように見える箇所があれば、それは伝統な教説に即して解釈されなければならないのである。
公会議の文言を盾にして「過去の教義が廃された」と主張する者は、カトリック教会は真理の担い手ではないと言っているのに等しく、自家撞着のそしりを免れないだろう。■
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皆さんも、死んだ身近な人の為にでも、心から祈ってみましょう。
多くの人は、当然、生きている間に何らかの罪を犯しますが、彼らのそうした過失が赦されるように。
彼らが無事に、天国に入れるように。
http://infantjesusmariapio.blog52.fc2.com/blog-entry-91.html
ケルンの有名な印刷業者、ウイリアム・フレイセンは、聖なる煉獄の霊魂のおかげで、
自分の妻と子供の健康が回復したいう次の説明をしている。彼は、煉獄に関する小さ
な本を印刷するという注文を受けとった。
[ cat*ol*c_l*n ]
2014/2/20(木) 午後 8:39
ゲラ刷りを校正していた時、その本に書かれている事実に注目した。聖なる煉獄達が、
自分の友達達の為にどのような不思議なことを行うかを初めて知った。
ちょうどその頃、彼の息子が重病になり、すぐに致命的な状態になった。聖なる煉獄の
霊魂の力について読んだ事を思いだし、自分の会社が印刷している本を100冊、自分
の財布から、お金を出して、世の中に広めることを約束した。
[ cat*ol*c_l*n ]
2014/2/20(木) 午後 8:39
この約束を更に厳かにする為に、教会に行き、誓った。直ちに平和と確信が自分の霊
魂を満たした。帰宅すると、水一滴さえ飲み込めなかった息子が、食べ物を欲しがった。
翌日、息子は危機を脱し、まもなく全快した。
フレイセンは、約束通り、煉獄についての本を注文し、配る事にした。これが苦しむ煉獄
の霊魂を助ける最善の方法であると確信した。・・・少なくとも100人の人達の注目を煉
獄の霊魂に集める事によってである。煉獄の霊魂が苦しんでいるのを知る人は、誰でも、
煉獄の霊魂の為の祈りを拒めない。
時が過ぎた。新たな悲しみが印刷業者に降りかかった。今度は、彼の愛すべき妻が病気
になった。あらゆる看護にもかかわらず、彼女の状態は徐々に悪化した。彼女は、自分の
心がおかしくなり、体がほとんど麻痺してしまった。医師はあらゆる希望を失った。
[ cat*ol*c_l*n ]
2014/2/20(木) 午後 8:40
彼女の夫は、自分の息子に対し、煉獄の聖なる霊魂がしてくれたことを思いだし、又も教会
に駆けつけ、煉獄の霊魂に関する本を200冊配る事を約束し、それと引き替えに、これら
の霊魂が助けを下さるように願った。
驚くべきことに、心の病が止まった。彼の妻の心は正常に戻った。彼女の四肢も舌も動くよ
うになった。短時間のうちに彼女は完全に回復した。
主よ、永遠の安息を彼らに与え、絶えざる光を彼らの上に照らし給え。 彼らの安らかに憩
こわんことを。アーメン
[ cat*ol*c_l*n ]
2014/2/20(木) 午後 8:40
>したがって、もしも公会議の文言が教会の過去の教えと矛盾するように見える箇所があれば、それは伝統な教説に即して解釈されなければならないのである。
それは違います。
過去は過去で良いのですが、現在は現在の有りかたに従うべきです。
カトリックは普遍であって、不変ではありません。
神学も典礼も刷新していくものであり、それに従っていくのが信徒のあるべき姿です。
[ 48音 ]
2014/6/8(日) 午前 0:14
おお、何てことをおっしゃるのです、カトリックは永久不変ですよ(笑)
もし「教義は時代に応じて変わる」と考えておいでなら、根本的にカトリシズムと相容れない世界観をお持ちなのですね。
「神学」は人間の営為ですから、誰でもいつでも自由に新説を唱えることができますが、それが正しい説とは限りませんし、信徒が一学者に「従っていく」義務などありません。
一方、「真理」は永遠に不変ですから、啓示された真理であるカトリシズムも、絶対に変わることはありません。表現は精緻化されていきますが、中身が「刷新」されることなどありえないのです。
もしも教義が変わったなら、カトリック教会は過去に真理でないことを真理として教えていた、つまり真の神の教会ではないということになりますので、信じるに値しないということになります。
ということで、公会議の前と後とで教義が変わった(伝統的な教説を否定するような解釈を採用すべきだ)と主張する司祭がいたとしたら、彼は教皇様の言う「伝統の連続性を否定する過ち」を犯しています。「それに従っていくのが信徒のあるべき姿」なんてとんでもない、ただの自家撞着ですね。
[ カトリック的。 ]
2014/6/9(月) 午前 1:11
ところで「48音」さん、「現在は現在の有り方に従うべき」とおっしゃる「現在の有り方」とは何を指してらっしゃるのでしょうか? たとえば典礼ひとつとっても、現状多くの教会で行われていることは、第2バチカン公会議の議決をはじめとする教会の直近の(現在有効な)規定に違反している訳ですけれど?
[ カトリック的。 ]
2014/6/9(月) 午前 1:12
・こちらは教義の話なんてしていません。
・カトリックの語源は「普遍的」という意味です。
・神学や典礼は刷新していくものです。不変ではありません。具体的な例としては、聖体拝領の仕方が変わったことや背面→対面ミサになったことなどです。
・伝統的なものも現在も同じなら、現在に従っておけば良いです。伝統的なものに即して解釈といっても、伝統的なものを解釈を正しくする方がより難しいのです。それは言葉の意味が時代的に変わっていく状況で古典文献を正しく理解するようなものです。
>たとえば典礼ひとつとっても、現状多くの教会で行われていることは、第2バチカン公会議の議決をはじめとする教会の直近の(現在有効な)規定に違反している訳ですけれど?
違反しているという判断は誰がしているのですか?
その判断が正しいという根拠はどこにありますか?
ヴァチカンから違反していると指摘があったものは別として、
それ以外について、勝手に違反していると判断している人がいます。
司祭でもない一般信徒が、規定に違反しているかどうかを判断できるというのは、大きな間違いです。
[ 48音 ]
2014/6/10(火) 午後 5:49
この記事は教義の話なのですけど、
[ カトリック的。 ]
2014/6/10(火) 午後 11:17
教義の話の中にある、教義の「解釈」について私は書いているのです。
極端な言い方をするなら、
もしも公会議の文言が教会の過去の教えと矛盾するように見える箇所があれば、
「それは伝統な教説に即して解釈されなければならないのである。」
ではなく、
「それは貴方の伝統な教説に対する解釈が間違っていたのである。」
ということです。
[ 48音 ]
2014/6/13(金) 午後 5:07
第二バチカン公会議後に翻訳がゆるされた聖務日課、読書(朝課)は私のようなラテン語、ギリシャ語が分からない者には嬉しい限りです。その読書も一世紀から11世紀ころまでは比較的違和感なく読めますが、これより新しいものになるとそれまでにはあまり見られなかったものが加わってくる書簡もでてきて、私には少しつらくなります。
カトリックが変わったといえば、ニケアコンスタンチノープル信条の改変の流れは残念に思っています。当時の教皇さえもこれを防げなかった。
第二バチカン公会議の書簡については、古代教会からの信仰が受け継がれているので、共感をもって読んでいます。
[ Y_Yuki ]
2015/4/9(木) 午後 11:20