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とあるカトリック系小学校の校長先生のお話を聞く機会に恵まれた。
入学時にはまだまだ自分のことで精一杯だった児童たちが、ぐんぐん成長し互いに思いやり助け合うようになっていくのを、温かい眼差しで見守っている様子がうかがわれた。堅固なキリスト教精神に支えられた先生方の日々の指導と善い模範、そして絶えざる祈りのたまものだろう。
やがて話題は、各校に配られた新しい道徳のテキスト(副読本)に移った。
右寄りの人々が道徳の教科化を画策する中、偏った思想教育が導入されないかと昨今かまびすしいこの副読本。どんなコメントが出るのかと思ったら…、
校長先生は静かに「よいことが書かれていると思います」とおっしゃった。
そして続けて、「わたしは最初から最後まで読みましたが、『ゆるし』という言葉が一度も出てきませんでした。キリスト教の根本は『ゆるし』ですから、人をゆるすという観念がなければ道徳として完全とは言えないと考えています」。
ああ成る程、「カトリック」の「先生」はこういう読み方をするのだ、と新鮮な思いであった。
ふりかえってみると確かに世間では、不幸にして罪を犯した人(不幸な境遇だから酌量の余地があると言っているのではない。うっかりではなく自覚的に、人としてやってはならない悪いことを本当にやってしまった人のことである)に対して、胸糞の悪くなるような罵詈雑言を浴びせかける人々をしばしば目にする。
自分が「まだ」その罪を犯していないからといって、「先に」犯した仲間をののしっても詮無いことである。
そこまで低級でなくとも、私たちはつい「絶対に許さない」とか「決して許してはならない」といった言い方をしがちではないだろうか。
あるいは、いつまでも他人をゆるせぬままでいたりしがちだ。とりあえず私はしがちだ。
罪を罪でないと言うのはもちろん欺瞞だが、一方で、もしわれわれが罪人をゆるさないなら我々が神に受け入れられることもない。
まして自分の丸太をさしおき兄弟のおがくずに拘泥しているようではどうなることか、今宵も相変わらずの良心の糾明…。
我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え。■
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はじめまして。スパイダーマンが大切な叔父を殺した犯人に、「私は、貴方を許します。」というシーンが強烈に脳裏に残っていましたが、カトリック精神だったのかも知れないと気付きました!ありがとうございます。
[ コヒー ]
2014/6/12(木) 午後 10:56
そのようなシーンがあるのですか、知りませんでした。
現実にも、自分たちの子どもを殺した犯人をゆるして養子にした夫婦の話を聞いたことがあります。
相手をゆるすことは、復讐することよりもずっと英雄的な行為だと思います。
[ カトリック的。 ]
2014/6/16(月) 午後 7:19