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仕事で南ドイツへ行った折に、クロアチア語のミサにあずかる機会があった。
筆者はスラブ系言語にはとんと不案内で、残念ながら最初から最後までチンプンカンプン、今ミサのどの部分なのかすら分からない有様だった。
第2バチカン公会議では、
ラテン語の使用は、ラテン典礼様式において遵守される。
(国語の使用は)朗読、訓戒、祈願と聖歌の中のあるものに…適用することができる。 (典礼憲章)
しかし、キリスト信者が、ミサ通常文の中で信者に属する諸部分を、ラテン語でもいっしょにとなえ、または歌うことができるよう配慮しなければならない。 (同)
と定められているにも関わらず、公会議の精神から逸脱した「典礼改革」によって、最初から最後までまったくラテン語を使わないミサが一般化している。
なかには、「会衆の母国語でないラテン語でミサをしても無益だ」とさえ主張する者までいる始末である。
第2バチカン公会議後に作られた新しいミサ(通常形式)であっても、その規範版はラテン語なのだが…。
さて、各国語のミサを擁護する者は、「ラテン語のミサは平信徒には意味が分からず置いてけぼりだった。自国語のミサなら司祭の言葉がわかり、心を合わせてともに祈ることができる」といった主張をしているわけである。
この主張は3つの論点から成っている。
1.ラテン語ミサは会衆には意味不明である。
2.自国語のミサならば会衆にも理解できる。
3.ミサに心を合わせて祈るためには、式文を理解する必要がある。
しかし、上記のいずれも説得力にとぼしいと言わざるを得ない。以下に順を追って検討する。
ラテン語ミサは意味不明か
現在カトリック人口のボリュームゾーンである60歳代の信者さんたちは、「昔のミサはチンプンカンプンだった」と皆さん口をそろえておっしゃる。何も考えないでいると「ああ、ラテン語では心に響かないんだな」などと思いそうになるが、それは早合点というものだ。
日本語ミサが始まったのは彼らが小学生・中学生のころである。まだ英語の義務教育すら終わっていないのに、ラテン語についていける方が珍しかったろう。
もしも100年前にタイムスリップして、その当時の成人信者にインタビューしたならば、彼らは「ミサがチンプンカンプンでついていけない」とは決して答えないだろう。
当たり前である。
毎週ミサにあずかっていて、チンプンカンプンということはありえない。
毎回変わる固有文ならいざ知らず、司祭が「Per omnia saecula saeculorum(世々に至るまで)」と言ったら「アーメン」と答えるとか、「Dominus vobiscum(主はあなたたちとともに)」とくれば「Et cum spiritu tuo(またあなたの霊とともに」だとか、細部の流れまで自然と身に着くものだ。
日頃の信仰教育や信心書などでミサ各部の意義は教えられるし、羅和対訳の式次第を見れば式文を逐語的に知ることもできる。
しかし、小学生にそこまでの理解を求めるのは酷というものだろう。今60歳代の信者さんが「昔のミサはよく分からなかった」と言うのも無理はない。
まして彼らは、多感な時期に「ミサは自国語の方がよい」という教会挙げてのキャンペーンにさらされた世代だ。感化されているのも当然である。
「ラテン語ミサは意味不明だった」という「当事者」の証言は、実はジェネレーション・バイアスの産物なのである。
【この項つづく】
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