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前回は、クロアチア語ミサがまったくチンプンカンプンだったという筆者の経験から始めて、
第2バチカン公会議は実はラテン語の使用を推奨していた(にも関わらず公会議後は自国語ミサがゴリ押しされてきた)という事実を確認し、
今の古参の信者さんが「昔のミサは意味不明だった、ラテン語よりも自国語ミサがいい」と主張するのは世代バイアスの産物に過ぎないことを見てきた。
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/64398149.html
自国語ミサなら理解できるか
「ラテン語をやめて自国語でミサをすれば、会衆が式文を理解することができる」というのも幻想にすぎない。
冒頭に記した、筆者のクロアチア語ミサの経験だけでも十分な反証になるだろう。その言語を解さない参列者にとってはチンプンカンプンになってしまうのである。
ラテン語であればそのようなことはない。
50年前まで、ミサは世界中どこでもラテン語でたてられていた。たとえ言葉の通じない異国の地にあっても、カトリック教会に行けば、祖国で与っていたのと寸分たがわぬ同じミサに与ることができたのである。
寄る辺のない移民や旅人たちにとって、それはどれほどの慰藉であっただろうか。全世界が同じ言葉で神を讃える…、カトリック教会の普遍性と一体性をこれほどまでに示すものがあっただろうか。
各国語のミサは、信仰共同体の分裂と不一致のしるしといえよう。
ガラスの器を割ることは簡単だが、もとに戻すのは難しい。私たちは、各国語のミサを容認することで、取り返しのつかない過ちを犯してしまったのではないだろうか。
とはいえ教会がその問題に気づいていないわけではない。
ローマ・ミサ典礼書の総則には、
各国の信者が集まる機会も日増しに多くなっているので、このような信者が、少なくともミサの通常式文のある部分、とりわけ、信仰宣言と主の祈りを、やさしい旋律を用いてラテン語でともに歌うことができることが望ましい。
と明記されている。
筆者としては、Kyrie(あわれみの賛歌)、Gloria(栄光の賛歌)、Credo(信仰宣言=ニケア・コンスタンチノープル信経)、Sanctus(感謝の賛歌)、Pater Noster(主の祈り)、Agnus Dei(平和の賛歌)、だけは少なくとも常にラテン語にすべきだと考えるが、いかがだろうか。
【この項つづく】
(以下は余談です)
ところで、言葉の通じない異国の地で、カトリック信者がラテン語でコミュニケーションするというのは決して過去の話ではない。
筆者は外国に行ったときにはできる限り、地元の人しか行かないような小教区のミサにあずかるようにしている。
先日タイに出張した際にも、ガイドブックにはまず載らない現地の小さい教会に行き、平日夕方の祈りの集いとミサとに参加してきた。筆者はタイ語もまったく分からないのだが、現地の高齢の信者の方とは聖堂に備え付けの祈祷書に記されていたラテン語の祈祷文から意気投合し、何とか意思疎通を図ることができたのであった。
日本が誇る知性、岩下壮一神父(1889-1940)の伝記に、師が中国を訪問した折、官憲に不当に拘留されていた中国人司祭の元を訪れ、互いの言葉が分からないのでラテン語で会話したというエピソードが出てくる。
まさか自分も似たような体験をするとは思ってもみなかったが、教会の公用語とはなんとありがたいものかと(聖フランシスコ・サレジオは、「教会の聖人がたが祈っておられたのと同じ言葉で祈るのはよいことだ」と勧めている)思うことであった。
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