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日本は宗教に寛容だと思っているおめでたい人々がいまだにいるようだ。
いわゆる「有識者」が、「七五三は神社、結婚式は教会、葬式は寺に頼むといった具合に宗教に寛容な日本人が、世界各地に宗教間・宗派間の対立が深まる中で果たせる役割があるのではないか」などと寝ぼけたことを言っているのを見ると、あまりのお花畑っぷりに開いた口がふさがらない。
無節操は寛容ではない
祭やクリスマスなどのイベントを表層的に消費することは、寛容とは対極にある。
男女関係にたとえてみよう。
もしある男が、気軽なデートにはA子、華やかな席に連れて歩くにはB子、会話を楽しむにはC子、ベッドの相手はD子・・・と、まるで女性をアクセサリーか何かのように扱っていたとして、彼は「女性を大切にしている」と言えるだろうか?
否、そのような男を、「女の敵」と呼ぶ。
節操のなさは寛容の表れではない。むしろ、対象への無関心と軽侮を示すものである。
寛容は「他者」への徳
「そうは言うけれど、日本では神仏習合という、宗教に寛容な伝統があるのではないか」と反論する向きもあろう。
これに対しては、日本では数百年にわたりキリスト教のみならず一向宗や不受不施派なども弾圧されたではないか、とか、そもそも仏教伝来時には宗教戦争が起こったではないか、とか、色々と指摘できるがここでは措く。
果たして神仏習合は、宗教に対する寛容の表れだろうか? 日本に限らず外国でも、ある種のヒンドゥー教寺院のように、モーゼもブッダもキリストもマホメットも、みんな自分のパンテオンに組み込んでまとめて拝んでいるという例があるが、それが寛容と言えるだろうか?
答えはノーだ。
自分とは異なる信仰体系の一部分だけを恣意的に選んで取り込んだだけであって、全く相手と向き合っていないからだ。
実際、一見「寛容」な多神教であるインドで、他宗教(仏教・キリスト教・イスラム教)に対する極めて激しい迫害が現在進行中である(日本ではあまり報じられないが)。
寛容とは「他者」に対する徳である。
自らに内在化させたものを尊重したところで、それは単なる自己愛の表出にすぎない。
日本は寛容/不寛容 どちらを選ぶか
筆者は、歴史的にキリスト教世界が寛容であったとか、他宗教に対する態度が理想的であったとか主張するつもりはまったくない。
しかし、ただ一つ言えるのは、キリスト教世界においては「寛容とは他者を受け止めることだ」と認識され、かつ寛容は美徳であり積極的に実践すべきだと考えられていることである。
もちろん必ずしもその実践に成功しているとは思わないが、それでも例えば今般ドイツでPEGIDAよりも反PEGIDAデモの方が圧倒的に多い人数を集めたという事実は、「人は寛容であるべきだ」という認識が共有されている証左ではある。
ひるがえって我が国では、そもそも寛容の何たるかが理解されていない(不寛容の極致のような現象を「寛容」の証拠として挙げる輩が後を絶たないほどだ)。
また、寛容を実践すべきだとも必ずしも考えられておらず、異質なものを排除しようとする傾向があるのも事実である。
筆者としては、同質性を追い求めるギスギスした狭苦しい社会より、互いを尊重し豊かな多様性のある社会の方が健康的で望ましく感じられる。
「和を尊ぶ」と言われる日本人だ。他者に対しても相和すことができれば鬼に金棒と思うのだが、どうだろうか。■
「寛容」とは何か・・・併せてお読みください:
藍より青く寛容たれ、日本人 http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/48641712.html
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日本は、宗教に対して不寛容です。間違いないです。
[ yan_yan ]
2015/2/3(火) 午前 0:05
宮城県大崎市古川商工会議所
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大型CVS
[ テニスプレイヤー ]
2015/2/3(火) 午前 0:10
寛容というか無関心にちかいとかんじます
2015/2/4(水) 午後 4:54