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同胞がテロリストに誘拐され身代金を要求される――、こんな事態がもはや他人事ではなくなった。
身代金を支払うとテロリストを増長させ際限なく誘拐事件を発生させることになるから、支払うべきではない、というロジックは正当だ。
一方で、なぜこの人が、無実の被害者が、犠牲にならなければならないのか、という思いも残る。
さて、国によって身代金に対するスタンスに差がある、と報じられている。
絶対に支払わない国と、表向き支払わないとしながらも陰で支払っている国があるというのだ。
・ 絶対に払わない国・・・アメリカ、イギリスなど
・ 陰で払っている(らしい)国・・・フランス、スペイン、イタリアなど
これを見ると、前者はプロテスタント教を国是とする国、後者はカトリックの伝統が強い国、ときれいに分かれている。何か理由があるのだろうか。
カトリックには、「十四の慈善事業」という考え方がある。物質的・精神的それぞれ七つずつ、模範的な善業を列挙するものだ(出典により順番は異なるが内容は同じである)。
<七つの物的善業>
・飢えている人に食事を与えること。
・渇いている人に飲み物を与えること。
・服のない人に衣服を与えること。
・病人を見舞うこと。
・宿のない人を泊めること。
・捕虜を身請けすること。
・死者を弔うこと。
<七つの霊的善業>
・悩んでいる人に助言を与えること。
・無学な人を教え導くこと。
・悲しんでいる人を慰めること。
・罪人をいさめること。
・侮辱を受けてもゆるすこと。
・他人の過誤や欠点をこらえること。
・生者と死者とのために祈ること。
聖書(マタイ25:34以下など)中のキリストの言葉に由来する考え方である。もとより善業がこの14例にとどまるものではないが、カトリシズムでは他人、とくに困難な状態にある人に対する愛の業が人間の責務とされ、その代表例として列挙されているものである。
ここで、「捕虜を身請けすること」が七つの物的善業の一つに数えられていることが注目される。
不自由な状態に置かれている人を救出することが、天に称賛される愛の業とされているのである。
上述の、身代金を支払ったとされる国々が軒並みカトリックの伝統の強い国であるということは、もしかするとこの「十四の慈善事業」という考えが影響していたのかもしれない。
つまり、たとえ悪人を利することになってでも、一人の無実の人を助け出すのは一層尊いことだという発想が背景にあるのではないか、ということである。
一方、プロテスタント諸国ではいささか事情が異なる。
ルターのいわゆる宗教改革が、贖宥状販売(これも他人や死者のために身銭を切るのは善であるという発想に基づいている)に反対して始まったという経緯から、プロテスタント教においては「善業は救いにとって無価値である」という強固な根本理念がある。
もちろん、「十四の慈善事業」という規範も存在しない。
結果として、「捕虜を身請けすべきかどうか」という逡巡から比較的容易に脱し、冷徹に対処することができるのではないだろうか。
また、プロテスタンティズムは、「全体の利益を最大化するためには、誰か個人が人柱になるのはやむを得ない」という(ある意味で全体主義にも通ずる)発想と親和性があるのかもしれない。
人類史上最悪の全体主義といえばナチズムだが、当時のドイツでもプロテスタントの強い地域ではナチスの支持率が高く、カトリックの多い地域は反ナチという好対照が見られた。
カトリシズムにおいては、「キリストは、抽象概念としての<全人類>ではなく、個人、ひとりびとりをそれぞれ愛し、救い給う」という信仰から、全体のために個人を犠牲にする考えを拒否する。
一人ひとりが幸福でなくて何が「全体」の幸福か、という発想があるのだ。
ある意味ラテン気質と言おうか、誰かを見殺しにするくらいなら、皆がほどほどに幸せな世界の方がいいんじゃないか、という考えである。
もちろん、それぞれの国の背後にある宗教伝統が、果たして身代金に対する考え方にも影響を与えているのかどうか、本当のところは分からない。あくまで推論の域を出ない。
ただいずれにせよ、日本はどのような社会を志向するのか、どのような理念を優先するのか、考えて行かなければならないだろう。我々に突きつけられた課題は大きく、重い。■
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