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「愛」という言葉ほど、誤解され、濫用されている言葉もないだろう。
ヒットチャートには甘いラブソングが並び、「愛」という言葉を耳にしない日はないほどだ。しかしその実、「愛してる」と口にする本人すら、愛の何たるかをまったく理解していないかもしれない。
愛とは何か
愛とは、「相手の幸福を願うこと」である。
人は本性的に、自分自身の幸福、善の実現を願うものである。
一方、愛とは他者において善をあらしめんとする意志であり、その帰結としての行動である。心に湧き起こる情念ではない。
愛が感情ではないという事実は、現代社会に重要な示唆を与えてくれるだろう。
誰かを愛するかどうか、すなわち相手が幸福であることを望むかどうかは、自分自身で決めることだ。したがって、たとえ憎たらしくて仕方のない相手であっても、彼を愛することができるのである。
キリスト教倫理は「汝の敵を愛せ」というイエズス・キリストの言葉に象徴されるが、もしも愛が感情であるならばこれは到底、実現不可能な掟というほかない。
人は心に勝手に湧き起こる感情そのものはコントロールし得ないから。
そうではなく、キリストは「汝の敵の幸福を望め。彼を大事にすると決意せよ」と命じているのだ。多くの場合それは愉快な決断ではないかもしれぬが、少なくとも決断するかしないかは本人次第である。
結婚の不解消性
こう考えていくと、一般に愛の結実と考えられている結婚についても、認識を改める必要が出てきそうだ。
結婚式では新郎新婦が、どちらかが死ぬ時まで、互いに変わらぬ愛と忠実とを尽くす、と誓う。
これは「死ぬまでラブラブでいようね☆」という宣言ではない。
容貌が劣化しようとも、性格に少々難があろうとも、経済観念が相容れなかろうとも、ついには相手に好感を覚えなくなろうとも、死ぬまで相手の幸福を最優先にし、相手を大切にし続けるという義務を自らに課すという(恐るべき)誓約なのだ。
これは必ずしも容易なことではない。しかしそれだけに尊い誓いである。
なればこそ、神は婚姻の秘跡を制定することによって、結婚を祝福し、恩寵をくだし、夫婦を強めるべくお定めになったのだろう。
マタイによる福音書 19・3-12
その時、ファリサイ派の人々がイエズスに近づき、イエズスを試みようとして、「何か理由さえあれば、夫が妻を離縁することは許されていますか」と尋ねた。
イエズスは答えて仰せになった、「あなた方は読んだことがないのか。創造主は初めから、人間を男と女とに造り、『それ故、人は父母を離れて自分の妻と結ばれ、二人は一体となる』と仰せになったことを。したがって、彼らはもはや二人ではなく、一体である。それ故、神が合わせたものを、人間が離してはならない」。
彼らは言った、「それでは、なぜモーゼは離縁状を渡して、離縁するようにと命じたのですか」。
イエズスは仰せになった、「あなた方の心が頑なだから、モーゼは妻を離縁することを許したのである。しかし、初めからそうではなかった。あなた方に言っておく。非合法な結婚以外の理由で、妻を離縁して他の女を娶る者は、姦淫の罪を犯すことになる」。
弟子たちはイエズスに言った、「夫婦関係がそのようなものなら、結婚しない方がましです」。
イエズスは仰せになった、「全ての人がこのことを受け入れるわけではない。ただその恵みを与えられた人だけである。生まれつき結婚できない者があり、また人から結婚できないようにされた者があるが、天の国のために進んで結婚しない者もある。これを受け入れることができる者は受け入れなさい」。
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