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許可と強制は別物
ある小学校で、それまで靴下は白無地のみと決まっていたのが、ある時からワンポイントまでOKと変わったんだそうです。するとある児童が、無地の靴下を履いている児童に「柄が入ってなきゃダメなんだよ」と言ったのだとか。
「してもよい」と「せねばならない」をごっちゃにしてるんでしょうね。まぁ、まだ子供ですからね、論理がわからないのでしょうね。
と思ったら、大人の世界でも似たような話があるようです。
いわゆるクールビズを実施している企業は多いですが、ある会社で、重要取引先とのアポがあってネクタイを締めて出勤してきた社員に、「みんなクールビズなのにネクタイしてちゃダメじゃないか」と言った上役がいたんだそうです。時宜に合わせてフォーマルな格好をしたのに叱られるなんて馬鹿げてますね。
自由選択や多様性を認めず、「皆と同じ」であることを強要する・・・同調圧力というやつですネ。
日本司教団の全体主義
理性と愛の牙城たるべきカトリック教会でも、残念ながら日本ではこの同調圧力が猛威をふるっています。
たとえば、ミサの聖変化の時には、全員ひざまずくのが全教会共通の基本ルール。狭い場所に人が密集していて物理的にひざまずくのが無理だったり、脚が不自由など健康上の理由があれば、立ったままでいることも許されています。
ところが日本では、「事情によっては立ったままでもよい」を「いつでも立ったままでなければならない」と読み替えて、ひざまずかない方がよいと間違った指導をする司祭が多く出てきてしまいました。
本来なら司教は間違いをただし、「本当のルールはこうですよ」と教えなければなりません。
驚くべきことに、日本の司教たちは現状を改善する任務を放棄してしまい、低きに流れる傾向を追認・助長します。「ミサの基本姿勢を立ったままとする」と一方的に(日本の正座文化を無視して)決定、それでローマの承認を取ってしまったのです。
司教たちの言い草がまたふるっています。
それでもなおひざまずく人に対して、「皆が立つのだから、自分の良心に従うのではなく周りの人に合わせて立ちなさい」というのです。ある集団の中で多数派であることが絶対的な権威であり、その多数派の意見が正しいかどうかなど関係ない、という主張です。
これを全体主義と言わずして何と言いましょう。
日本のカトリック教会は日頃しきりに政治的なキャンペーンを張ってらっしゃいますケド、実は司教たち自身が一番の全体主義者とは皮肉なもんですネ。
けれども私は悲観はしていません。
冒頭の、お友達に「もう白無地はダメなんだよ」と言った児童も、校則を見れば自分の間違いに気づくことでしょう。また、例外的な許可を絶対化して本来の基準を否定するのはおかしい、ということもいずれ理解するでしょう。
理性を重視するのがカトリシズムの特徴。時の流れの中で、一時的に不合理がまかり通ることがあっても、いずれ自然と道理に戻っていくものだと思っています。
御摂理への信頼と希望を胸に、日々祈って行きたいと思います。■
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