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カトリック的。
信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

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私たちカトリック信徒は毎週、教会に集まってミサに与ります。
それでは、このミサとは一体どのような儀式なのでしょうか。多くの人が、「ミサとは、神さまを賛美・礼拝し、皆で一緒にキリストのからだをいただく儀式」と考えているのではないでしょうか。
必ずしも間違いではないのですが、肝心なことが忘れられているように思います。それは、「ミサの本質は拝領することではなく、いけにえ(犠牲)をささげることである」、ということです。


ミサは犠牲奉献


教皇ヨハネ・パウロ2世は、書簡『ドミニチェ・チェネ』の中で、次のように述べておられます。

「聖体は何よりもまず犠牲です。つまり、あがないの犠牲であり、[・・・]新約の犠牲でもあります。」
「もしもそれ [人類と世界が神へ返還されること] が無ければ、実際に完全で決定的であったあがないの犠牲の尊さとミサの犠牲的価値のどちらも疑わねばならないでしょう。しかし、聖体は真の犠牲であるので、この神への返還を実現します。」

つまりミサとは、人類の罪のあがないのために受肉し十字架上で亡くなられた神の御子がご自身をささげた犠牲、あの唯一で完全な犠牲と同じ犠牲をささげるものです。
それは単なる模倣にとどまるものではなく、カルワリオでの出来事とまったく同じ価値と効果を持っています。なぜならミサでは、キリストが、キリストとなって働く司式司祭の手を通して、キリストという完全ないけにえを父なる神にささげるからです。

人類が犯した、自分では償いきれない罪のために、神ご自身が人となり、いけにえとなってゆるしを与えてくださったこと、そしてそのはかりしれない神秘を、聖体の秘跡を制定して私たちに伝えてくださったこと。それは神の限りない愛の表われです。私たちはその慈しみに、どれほど感謝しても足りませんね。


「ミサ=会食」の間違い


ところが近年、この尊い犠牲を否定して、「ミサとは会食、宴会だ」と主張する人たちが出てきました。
彼らによれば、本当のミサとは、キリストの名のもとに皆が集い、愛の交わりとして食事をともにすることなのだそうです。ですから祭壇はいけにえをささげる祭壇ではなく、食事を置くテーブルの意味しか持たないということになります。
その証拠に、初代教会の人々は信者の家の食堂に集っており、専用の聖堂や祭壇など無かったではないか、と彼らは主張します。

けれども、それは間違いです。
確かに初代教会の人々には聖堂も祭壇もありませんでした。生まれたての小さな集団で、しかも厳しい迫害を受けていましたから当然のことです。また、彼らは祭壇を持たないことを誇りにしていましたが、それも、異教の物質的な犠牲と、キリスト教の霊的な犠牲とを区別させるためであり、真の犠牲をささげる神聖な祭壇そのものを否定したのではありません。

ミサを単なる「共同体の食事」と考えることは、ヨハネ・パウロ2世が述べられた「神への返還」を不可能にすることであり、神との関係性を断ち切ることになるのです。


教皇の警告


教皇ヨハネ・パウロ2世も書簡の中で、「ミサを単なる宴会と考え、これに与ってキリストの体をいただくのは、何よりもまず兄弟愛を表わすためと思っている」人たちのことを特に取り上げて、そのような人たちは人間的な考えや順応主義に陥ってしまうと警告しておられます。

聖体は確かに、私たちの霊魂の糧であり、天上の祝宴の先取りでもあります。
しかし、その本質が十字架の犠牲であるということを過小評価してしまえば、ミサ聖祭というお恵みの源泉が何であるのかが不明確になります。

教皇さまの警告に耳を傾け、「共同体の食事」ばかり語る危険な人々に気を付けるようにいたしましょう。■

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